続き。
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試撃行の道筋3
①9月1日。宿の者の言うとおり晴天になった。
旅人が喜んで話しかけてくるので、自分も喜んで応じた。
②土浦城下に入る関門があり、役人が名を訪ねてきたので、
「長藩士高杉晋作。文武鍛錬の為、関東を遊歴する者」と答え、
城下に入ることができた。地元民いわく関門が厳しくなったのは、
水戸浪士の騒動以来だという。
※水戸浪士の騒動というのは、桜田門外の変の事。
この年に勃発した事件によって、
関門の警備が厳重になったのが伺えます。
城下の宿に入り土浦藩の名士に取り次いでほしいと頼んだが、
水戸の中納言様が亡くなったばかりで城下が喪中なので、
取り次いだところで剣の手合せは困難でしょうから、
他の城下へ行かれた方がよいと言われる。
※徳川斉昭は8月15日に死去しています。
土浦藩土屋家が喪に服すのは、
当時の藩主土屋寅直が斉昭の従弟にあたる事から。
仕方なく宿を出て他の城下へ向かう。
2~3丁歩くと前面に筑波山が見えた。
草木や森がしげり、山が川を分かっている。
これらを目に焼き付けながら、山を仰いで川を渡り、
③府中駅で宿をとった。
府中は水戸藩の支藩松平播磨守の城下。城下は雑然として、
風俗も人心も軽薄なようだ。水戸藩の支藩なのに全く違う。
これは天下の有志士らも知ってる事で、自分には関係ない事ながら、
天下の為にはよくない事である。
※天下に知れ渡る軽薄な風俗や人心ってすごいですね。
もちろん今はそんなことないのでしょうが、
地元の人は良い気はしないでしょうね。
当時、陣屋は府中ですが、所領の大半が陸奥にあったらしいので、
財政難から民への待遇は相当厳しかったのではないでしょうか?
9月2日。府中駅を出発して奥州街道を歩く。
途中で水戸道と笠間道に分かれ、笠間道を進んだ。
左側は水戸領で海岸が広がって山は見えない。
右側は筑波の諸山が陰々鬱々としている。
笠間城はその山際にあり、樹木の間から城壁が見えた。
山麓を迂回して城下に至る。
※府中から笠間へ向かうと、左が山で右が海だと思うのですが、
どうも反対に言ってるようです。何かの意図があったのか、
はたまた勘違いしただけなのか・・・。
④笠間城下前に関門があり、役人が名を訪ねてくるので、
土浦の関門で言ったのと同じ事を答えた。
その後、城下に入って投宿。
宿の主人が「当藩は学校を建設していますが、まだ未完成です。
なので他方から人が来ても必ず断るそうです」と言った。
この地の撃剣家へ斎藤弥九郎先生の紹介状を渡してもらったが、
宿の主人が言うような理由で断られてしまう。
仕方がないのでこの宿で一泊し、明朝に加藤先生を訪ねる事にする。
※斎藤弥九郎は神道無念流練兵館の創始者。
長州藩士の多くがここの門下で、晋作もしかり。
遊学にあたって斎藤弥九郎に紹介状を書いてもらったのでしょう。
未だ一度も撃剣も討論を行っていない晋作ですが、
次の日は素晴らしい出会いが訪れることになります。
続く。
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