試撃行日譜⑦

続き。
//////⑦

やる気のなくなった日記を頼りに、
晋作の足取りをたどります。

9月13日足利に滞在。

9月14日。朝、試合をする。
①足利駅を出て赤城山を越え、
玉村駅に泊まる。
※誰と試合をしたか記入されていません。
 タイトルが試撃(試合)行日譜なのに、
 試合の詳細を書いていませんね。


9月15日。雨。
玉村駅を出発して妙義山を越え、
碓井の関所を抜け、
坂本駅(坂下)に泊まる。

9月16日。坂本駅を出発して、
碓井峠、浅間山を通って④塩野駅へ泊まる。

9月17日。塩野駅を出発して、
上田城下に至る。
※上田藩は松平伊賀守の所領。
9月18日。終日試合をする。
※誰と!?
9月19日。上田城下に滞在。

9月20日。晴。沢山人が来て酒宴を開く。
桜井恒川と密談をする。
桜井と恒川に従って、
山形屋」から別の旅宿に移り、滞在。
山口平太郎に会って少し議論する。
桜井が来て九ツ時まで話す。
※桜井・恒川とは、
 上田藩士櫻井純蔵恒川才八郎と思われます。
 2人は安政4年、松下村塾を訪問しており、
 晋作と知り合いだったのでしょう。
 山口平太郎も上田藩士。

 後に藩主御側御用人となっています。

9月21日。晴。
朝、恒川と桜井らが来て酒宴を開く。
昼食後、出発。夜五ツ時前に⑥松代駅に到着。
宿は汚く長谷川吉村は宿を代えるので送る。
※この長谷川と吉村は誰なのかわかりません。
たぶん上田からついて来たのでしょうか?
松代藩重臣長谷川昭道か?


9月22日。雨。
午後に学校から迎えが来る。
夕飯後の事であった。試合をして夜に帰る。
長谷川が来て酒宴となる。
夜九ツ時前、密かに佐久間象山を訪ねる。
朝六ツまで話した。
※長谷川は象山を紹介するために、
 上田からついて来たのかも?
 夜九ツ(午前0時頃)から、

 朝六ツ(午前6時)まで話しており、
 対談は喧嘩別れのように思われていますが、
 実際の内容は何も書かれていません。
 もちろん天下の事を論じたとは思いますが、
 やはり松陰の思い出話に、

 花を咲かせたのではないでしょうか?

9月23日。朝、松代駅を出発。
善光寺に参拝して、
日暮前に⑦牟礼駅に到着し宿泊。
ここは天領である。

9月24日。雪。
この辺は山が多く耐え難い寒さである。
北越の山々は雪に覆われていた。
関川には関所があり、
高田藩の預かりとなっている。
ここが信州と越後の境界で湖があった。
新井(荒井)に宿泊。
夜に大雨が降る。同友有リ。
※「同友有リ」となっていますが、
 同行者がいたのでしょうか?

9月25日。雨。
朝、荒井駅を出発して高田駅に至る。
ここは榊原候の領地である。
城下は繁盛しており士民達の様子は、
15万石の大名領地とも思えない。
剣客河合和作を訪問するが、
稽古場を造成中で断られた。
高田を出てニ里程進み、奥州道、加賀道、
今町道の分岐に着く。
海辺に出ると、大風雨で、波が高く、
断崖絶壁で危い所だった。
二里はかり進み、⑨長浜駅で宿泊。
※河合和作は調べてもどういう人物か不明。
 稽古場を造成中ということなので、

 道場主だとは思いますが・・。

9月26日。半晴。
朝は雨で、昼は晴れ、暮に雨が降った。
早朝、長浜駅を出発。
この辺りの海岸の趣きは、昨日と変わらない。
ふと海防論のことが頭に浮ぶ。
糸魚川駅に宿泊。

9月27日。雨。早起きして糸魚川駅を出発。
親不知の難所を通って、
泊駅に宿泊。


9月14日~27日の行程

9月28日。半晴。
※ここから越中、越後を巡るのですが、
日記は途絶えます。
この間、横井小楠に会い、

著書などを書き記していますが、
旅日記というより雑記帳のようになっています。
・・で、日記が再開するのは、

琵琶湖のほとり衣川からです。

途絶えた間の行程(推測)

10月10日。雨。①衣川駅を出発。
孤松を見学して②大津駅を経由し、
伏見駅に至る。
真夜中に淀船に乗り込む。
明け方に④大坂の到着して上陸。
富海船に乗る。
※弧松とは「唐崎の松」と思われます。
 歌川広重の「近江八景之内 唐崎夜雨」に、

 登場する有名な松です。
 淀船は旅客を乗せて淀川を運ぶ川船。
 富海船は大阪-長州間を結ぶ高速船。

 (記事はこちら

10月11日。雨。陽は全く顔を出さない。
同船した客にはろくな連中がいなかった。
見ていてこっちが恥ずかしくなるほど。
終日、船中で過ごした。
※見てて恥ずかしくなるほどの客とは、
 どんなものでしょう。
 ワイ談でもしてたのでしょうかね。



10月10日~11日の行程

これで「試撃行日譜」は終了。
晋作は富海に到着して、
萩往還から帰国したと思われます。
なんとも中途半端な旅日記となりましたが、
前半の松陰の書にはない情緒ある描写は、
とても素晴らしいものでした。
内容は剣術修行のようなタイトルでありながら、
撃剣についてはほとんど書かれずでした。
負け続けたから書く気が失せたともされますが、
一応は柳生新陰流免許皆伝の晋作が、
そこまで弱いとも思えませんし、
神道無念流斎藤弥九郎も、
紹介状を書いているくらいなので、
ある程度は強かったはずです。

いざ試合をするようになってくると、
疲れて日記を書く気も失せたのでは?
・・で、書かない日が続いたら、
もはやさかのぼって書く気にならなかった。
実際は、そんな単純な理由かもしれませんね。

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