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伏見は奈良時代より街道が整備され、
水運も発達した交通の要所でした。
平安時代には景勝地であった為、
貴族の別荘地となっており、
近世には豊臣秀吉が伏見城を築城。
江戸時代には初の銀座が設置され、
京都と大坂が水路で結ばれた為、
日本最大の河川湊となっています。
更に元和5年(1619)には宿場が設置され、
多くの旅人が伏見に宿泊しました。
伏見区中心部周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが伏見宿跡。
「中国行程記 伏見」。
この絵図は南側のみです。
「京橋」。
中書島と伏見を結ぶ京橋。
陸路での伏見への入口にあたり、
水路でも橋の下をくぐって伏見に着きます。
北詰には高札場があったようで、
伏見に入る人々が情報を得ていました。
「伏見口の戦い激戦地跡」碑。
京橋北詰東側に建てられた碑。
慶応4年(1868)1月2日。
鳥羽伏見の戦い前日の夕刻に、
会津藩先鋒隊約200名が伏見に上陸。
伏見御堂を本陣としました。
伏見奉行所の旧幕軍が敗走した際は、
民家に火を付けながら敗走した為、
この辺りは大きな被害を出したとのこと。
街道は北へ進みますが、
寄り道して寺田屋へ。
「寺田屋」。
船宿を営んでいた寺田屋。
当時の建物は鳥羽伏見の戦いで焼失。
直ぐに建て直されたようですが、
場所は隣の敷地であるとのこと。
寺田屋については別記事とします。
街道へ戻って北へ。
街道は油掛通との交差点を東へ。
「油掛通」。
西岸寺の油掛地蔵が名称の由来。
伏見湊に近く旅人で賑わったという。
街道は2つ目の四差路を北へ。
「伯耆町」。
町名は杉原伯耆守や青山伯耆守に由来。
大手筋を過ぎて更に北上。
「南部町」。
盛岡南部家に因む町名とのこと。
つづく。
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■関連記事■
・滋賀県大津市 大津宿跡
東海道の53番目の宿場町。
・京都府京都市 伏見奉行所跡
伏見を支配した伏見奉行所跡。
・京都府京都市 伏見桃山陵
明治天皇の御陵。
