続き。
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試撃行の道筋5
①9月6日。 宇都宮駅を出発。
老松を擁する道を、自然と上へ登って行くと、
日光山が前方に見えてくる。1歩1歩近付いていく。
この日は肩と足の疲労が溜まっていた。
②日暮れ時に日光山の麓に到着。
行き交う人に訪ねると「日光警衛士山口為之助は剣術好きで、
他国人が来れば必ず試合をするらしい」との事。
僕は大喜びし、疲れも忘れて訪ねたが、山口は不在であった。
山口の使者曰く「今は奉行が江戸に行っていて、
主人がその業務を引き継いでいるので、試合は困難である」
使者の言動が不遜で。これは幕府の悪習ゆえ怒るには足らない。
そう堪えて疲れた体を2~3丁歩いて投宿。
※ここでも怒っています。そりゃ試撃行と銘打ちながら、
まだ一度も剣を振っていないのですからね。
ぬか喜びした分、使者の不遜な態度にキレたのでしょう。
明朝、中善寺に登ろうと思い、宿の主人に案内人を頼む。
「日光山中善寺全図」を開き、その地形を覚えようとした。
結局、一睡もせずに夜が明けるのを待つ。
※中善寺の地図を見て眠れなくなったというより、
怒りで眠れなかったのでは?
9月7日。早朝より案内人が来る。
案内してもらい中善寺に登った。一里登って寂光の滝に到着。
側に3つの祠があり、滝は中禅寺の景色の中で最も低い位置にある。
道を右折し森林の屈折した道を歩き、
そこを抜けさらに森林となり数十丁進むと裏見の滝が現れた。
これは東日本に二つと無い珍しい滝である。
大きな岩で突き出ていて、その下を清流が流れていた。
この大岩の下から滝の裏が見える。それで裏見の滝というらしい。
案内人が大岩の下に行こうとしないので、案内人に言った。
「ここまで来て滝の裏を見ないのは武士の恥だ。
行かないなら自分だけで行く」と言って進む。
案内人は驚いて、あとから付いてきた。
※案内人は怖かったんじゃなくて、濡れるのが嫌だったんでしょう。
岩の下でしばらく立っていたが、水は激烈でその下は十数丈もある。
滝壺の端には花が咲いており、滝を出ると顔や衣は濡れてしまった。
森道を左折右行して十数丁行くと中善寺の参道に出る。
少し進むと橋があり、左手に般若の滝と方等の滝があった。
ここを過ぎて左折すると華厳の滝が現れる。
この滝は紅花が飛散するが如きで、山下の滝を見る位置にいるので、
水が樹木に刺さるように見えた。
案内人曰く「紀州の那智の滝は、下から滝を見上げるので、
滝全体を見る事が出来ます。この二滝は日本の2大名滝ですが、
那智の滝は下から上を見る形なので、第一等とされています」
中善寺に至ると湖がある。横縦一里半、老杉巨木の森林がそれを囲む。
側に祠があり、茅葺家屋が数十棟建っていた。
案内人はお祭りの時には諸方より人が集まり、
清めた野菜を奉納するのだと言う。
参拝を済ませて、もとの道を帰り、日暮れに宿入りした。
※晋作の「中善寺日帰り滝めぐりツアー」です。
下に簡単な経路を載せておきますが、
どう考えても変なルートなんですね。
案内人がメチャクチャなルートを案内したのか・・・。
それとも晋作の記憶違いなのか・・・。
案内人が間違った滝を、般若の滝と方等の滝と言ったのなら、
辻褄が合います(青線ルート)。
9月8日。早起きして宿の者の案内で日光東照宮に登った。
東照宮の他、神社仏閣が無数にあり、賽銭を取って悩ませている。
東照宮は広大無辺で、金銀金具、唐木彫物、その他石灯篭など、
諸大名がへつらって寄進したものが数え切れぬほどあった。
この辺については思うところがある。
※さすがに徳川の霊廟に対しては良く思っていないようですね。
宿へ帰り飯を食い、日光を出発。
午後より雨。二里進むと宇都宮道に出る。右折すれば例幣使街道。
ここを過ぎて板橋宿に至った。松林で博徒が賭博を行っていた。
③鹿沼駅に着いて投宿。
ここは江戸から宇都宮や日光への経由地なのでたいへん栄えている。
夜になって少し雨が止み、商人達と同部屋となって話をしたが、
その内容は別の書に書く事にする。
※松林で博徒が賭博をやっていたのが面白い。
さすがに関東は博徒が多いですね。
商人との話を別の書に書きたいと思うほど、
有益な話だったのでしょうか?
残念ながらそれを書いた書はありません。
続く。
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