晋作は笠間藩で初めて名士加藤有隣を訪問。
9月3日。
早く起きて加藤先生を訪ねると、
先生は書楼へ招いてくれた。
ここは十三山書楼という書楼で、
三方の山峰が13ある事に由来する。
先生は元々水戸人だったが、
笠間藩の加藤家に養子に入った。
和漢古書に精通して済経の才能もあり、
藩主の為に政務を行っていたが、
笠間藩は譜代で俗論家が多く、
その連中に妬まれ政務から外される。
今は総髪老成となり、
質素で清らかな暮らしをしており、
浩然の気を養っている。
他方の有志が訪問すると書楼に案内して、
必ず天下の事を論じるようだ。
七言古詩を見せると先生は大いに喜ぶ。
静かに座って語り合う。
話題は天下の事で大いに力を得た。
話しは興に乗って尽きなかったが、
夕日は既に落ちて夜風が書楼に入ってくる。
辞去を願うと先生は一冊の本を出してきた。
先生が最近作った詩集である。
先生は晩飯を出してくれて、
それから再三論談をくりかえし、
詩集を借りて急いで宿に戻った。
先生の詩は浮ついたものや、
中身がないものとは異なる。
慷慨激烈で読んだ者は人物を知るだろう。
天下の形勢を知る事も出来る。
読み終わる前に暁鐘が鳴るのが聞こえた。
9月4日。寝る暇も無く顔を洗い、
朝食後に加藤先生の許へ。
別れの挨拶をすると、
先生は自分を気に入ってくれた様子で、
自らの書楼に誘い入れてくれた。
話は盛り上がって時が経つのを忘れてしまう。
先生はまた食事を御馳走してくれた。
出来ることならば留まりたいとこだが、
君命には逆らえないので辞去する。
僅かな時間ながら長年の師を別れる思い。
※長い文章になりましたが、
晋作の感激を知ってもらうには、
全部読んでもらう他ないでしょう。
気に入られたのは間違いないでしょうが、
他客にどのように接していたかは不明。
毎回このような感じかもしれません。
有隣は後に長州藩に召還されており、
藩校明倫館で水戸学を教え、
私塾を開いて藩士子弟を育てています。
有隣にとってもこの出会いは、
運命を左右する大きなものとなりました。
十三山のひとつ南台山は、
その昔は勤皇の地であった。
先生が書楼をこの地に置いた所以である。
①加藤先生の楼を辞して1~2里行くと、
雨が降り風雲が起きた。
十三山も暗くなって見えない。
先生の引きとめる気持ちが、
十三山に反応したようである。
②大泉駅に到着。宿にする。
ここは旗本某の領地で、
人家は少なく旅館はさらに無い。
仕方なく民家に泊めてもらったが、
夜中に博徒が三人来て隣で寝た。
※大泉駅というのは桜川市大泉?
夜中に博徒が来たってのは面白い。
博打を打った帰りだったんでしょうか?
9月5日。
大泉駅を出発。
雲が出てるが雨は降っていない。
山渓を数里歩いて③毛賀駅に到着。
ここは天領で人家が密集して町になっている。
地元民曰く、
「ここは四方より人が集まるので賑やかです。
昔は散財する人が多くいて、
市街は賑わっていましたが、
最近は景気が悪く散財する人もいないので、
寂れてしまった」
※毛賀という地名はこの辺に無い。
栃木県芳賀郡芳賀町か?
毛賀駅を出て山に登る。
山の上は原野や森ばかり。
4~5里周辺に人家は無い。
宇都宮までは5~6里は皆原野であった。
④宇都宮に到着。戸田播磨守の領地だが、
栃木県宇都宮市 宇都宮宿跡①
他藩の人間に試合をしてくれる者もいない。
江戸浪人が民に乱暴でも働いているからか?
仕方なく宿をとる。
城下は賑わっていて人家も密集しているが、
民は都会の悪習に染まり藩士は軽薄である。
情けなく失笑である。
※晋作、怒っています。
断わられたのは初めてではないのに、
ここまで怒るってことは、
断わり方が良くなかったのか?
宇都宮藩は尊攘藩士も多いはずですが・・。
こういうのって対応した藩士の態度が、
藩全体のデフォルトになりますから、
対応した藩士が相当だったのでしょう。
田舎者扱いでもされたんでしょうね。
9月4日~5日の行程
続く。
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