続き。
①/②/③/④/⑤/⑥/⑦
万延元年9月1日。
宿の者の言うとおり晴天。
旅人が喜んで話しかけてくるので、
自分も喜んでこれに応じた。
②土浦城城下に入る関門で名を訪ねられ、
「長藩士高杉晋作。
文武鍛錬の為、関東を遊歴する者」と答え、
城下に入ることが出来た。
地元民いわく関門が厳しくなったのは、
水戸浪士の騒動以来だという。
※騒動というのは桜田門外の変の事。
この年に勃発した事件によって、
警備が厳重になったのが伺えます。
宿で名士に取り次いで欲しいと頼んだが、
水戸中納言様の喪中なので、
取り次いでも手合せは困難でしょうから、
他の城下へ行かれた方がよいと言われる。
※徳川斉昭は8月15日に死去。
土浦藩土屋家が喪に服すのは、
藩主土屋寅直が斉昭の従弟である為。
仕方なく宿を出て他の城下へ向かう。
2~3丁歩くと前面に筑波山が見えた。
草木や森が茂り山が川を分かっている。
これらを目に焼き付けて山を仰いで川を渡り、
③府中駅で宿をとった。
府中は水戸藩の支藩松平播磨守の城下。
城下は雑然で風俗も人心も軽薄なようだ。
水戸藩の支藩なのに全く違う。
これは天下の有志士らも知ってる事で、
自分には関係ない事ながら、
天下の為にはよくない事である。
※天下に知れ渡る軽薄な風俗や人心・・。
勿論今はそんなことないのでしょうが、
地元の人は良い気はしないでしょうね。
常陸府中藩の陣屋は府中ですが、
所領の大半が陸奥にあったらしいので、
財政難から当時の領民への待遇は、
相当厳しかったのではないでしょうか?
万延元年9月2日。
府中駅を出発して奥州街道を歩く。
途中で水戸道と笠間道の追分を笠間道へ進む。
左側は水戸領で海岸が広がって山は見えない。
右側は筑波の諸山が陰々鬱々としている。
城は山際にあり樹木の間から城壁が見えた。
山麓を迂回して④笠間城下に至る。
※府中から笠間へ向かうと、
左が山で右が海だと思うのですが、
どうも反対に言ってるようです。
何かの意図があったのか、
はたまた勘違いしただけなのか・・・。
笠間城下前に関門があり名を訪ねてくるので、
土浦の関門で言ったのと同じ事を答えた。
その後に城下へ入って投宿。
宿の主人が、
「当藩は学校を建設していますが未完成です。
その為に人が来ても必ず断るそうです」
と言った。
斎藤弥九郎先生の紹介状を、
この地の撃剣家へ渡してもらったが、
上記の理由で断られてしまう。
仕方がないのでこの宿で一泊し、
明朝に加藤先生を訪ねる事にする。
※斎藤弥九郎は神道無念流練兵館創始者。
長州藩士の多くが門下で晋作もしかり。
紹介状を書いてもらっていたようです。
9月1日~2日の行程
未だ撃剣も討論もしていない晋作ですが、
素晴らしい出会いが訪れることになります。
続く。
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