弘前藩は奥羽越列藩同盟を脱退しますが、
同盟には特別な関係の近衛家の命令により、
仕方なく脱退してしまったが、
国内警備に専念して出兵しないと弁解。
実際には新政府軍として秋田戦争に出兵し、
久保田藩を支援しています。
久保田藩の支城大館城は、
盛岡藩の攻撃で落城寸前となり、
城代佐竹大和は弘前藩に盛岡侵攻を要求。
しかし戦況は同盟軍に有利な状況であった為、
弘前藩は出兵を見合わせており、
久保田藩に武器弾薬の補給のみを行い、
結局は大館城は落城します。
その後、新政府軍が優勢となってくると、
「ようやく兵備が整ったので出兵したい」
という旨を伝えて藩兵を派遣。
これに奥羽鎮撫総参謀田村乾太左衛門は、
「日和見である」と批判しています。
弘前藩も日和見だという認識はあったようで、
明確な態度を見せる為の行動が必要でした。
一方で盛岡藩は盟主仙台藩が降伏した為、
新政府に降伏してこれが受理されています。
・・・
小湊に集結した弘前藩とその支藩黒石藩兵は、
突如として奥州街道を南下し、
藩境を越えて馬門村に侵攻。
一斉に放火されて村は全戸が燃やされました。
さらに侵攻して野辺地へ向かった津軽勢は、
野辺地川を挟んで盛岡藩兵と八戸藩兵と交戦。
津軽勢は一時は渡河も果たしていますが、
日の出の逆光で不利となり、
反撃を受けて壊滅状態となり、
弘前、黒石藩兵は撤退しました。
※野辺地戦争。
この戦闘で死亡した弘前藩兵27名が、
葬られた墓所が残ってます。
「野辺地戦争戦死者墓所」。
弘前、黒石両藩の戦死者は、
35~40名以上とも云われます。
そのうちの27名が、
4基の墓に分けて埋葬されました。
「弘前藩士達の墓」。
右端
弘前藩 司令士 小嶋右近貞邦
半隊司令士 谷口永吉貞光
中田盛弥産紀
銃卒 工藤岩吉久清
森山勝三郎安久
羽賀多吉定英
成田清太郎正勝 墓
右から2番目
弘前藩 銃卒 大川豊太郎利清
佐野左吉芳成
今銀作利宗
竹村長太郎友之
大川元太郎行忠
条田巳八隆文
夫方 柏原村 文作
松森村 清蔵 墓
右から4番目
弘前藩 銃隊 土岐貫貞豪
高木孫市正矩
佐々木豹次郎貞之
佐々木良作久勝
山中重次郎泰坦
成田忠次郎武邑 墓
左端
弘前藩 斥候 山田要之進楯雄
銃隊 田中又蔵正心
山川啓吉清高
小野政之助但正
井関運八祐綱 墓
ちなみに司令士小島貞邦(貞知ともいう)は、
現存最古の[ねぷた絵]の作者。
その絵は弘前市立博物館にあり、
野辺地戦争前に横内村で陣を張った際に、
ねぷたを造って運行したものだという。
盛岡藩は弘前、黒石藩兵を防ぎはしましたが、
弘前藩・黒石藩は官軍であった為、
敵を丁寧に埋葬したのかもしれません。
盛岡藩は弘前の参謀局より呼び出され、
家老の新渡戸傳と上山守古が出頭。
参謀田村乾太左衛門はこの衝突を非難し、
新渡戸は自分の首級で許しを願いますが、
戦闘の責任者では無い為に却下され、
総督の家老栃内与兵衛の首が要求されました。
この理不尽な要求に盛岡藩は取り消しを求め、
最終的に首級を献ずるに及ばずと決まります。
この戦闘を戊辰戦争の一部とぜず、
津軽家と南部家の私闘とする事で、
新政府は関与しない方針をとったようです。
津軽への肩入れは不義の攻撃と敗戦が、
新政府軍として不名誉となる為、
私闘として処理したのでしょう。
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