青森県上北郡 野辺地戦争関連史跡

盛岡藩領内に侵攻した弘前藩黒石藩兵は、
馬門村に進入すると次々に放火を開始。
民家64戸と遍照寺が焼失してしまいます。
この馬門にあった番所も焼失しており、
虚を突かれた役人及び守備兵は、
野辺地方面に逃走しました。


馬門御番所跡」。
藩境を越えるには番所で手形を見せ、
許可を得た後に2km先の藩境塚を通ります。
(記事はこちら
弘前・黒石藩兵は藩境塚を越えて番所に到着。
放火によってこの番所を焼失させています。
しかし村を焼き尽くした炎は、
弘前、石黒藩兵の侵攻を遮る事となり、
大回りをする羽目になりました。

戦後、弘前藩より2名の使者が馬門を訪れ、
村を焼失させたのは本意ではなく、
家を失った村人が気の毒であると、
民家64戸、寺院1軒への賠償を提案。
しかし代表で応対した庄屋川村六次郎は、
他所で放火した盛岡藩の後難となると断り、
その対応は評判となったそうです。

野辺地の守備隊総督栃内与兵衛は、
既に降伏が受理された後での応戦を嫌い、
兵を後方へ引かせて様子を伺います。
その隙に弘前・黒石藩兵は野辺地川まで侵攻。
ここに至って応戦やむなしとして、
八戸七戸笹舘の各小隊が応戦し、
川を挟んで銃撃戦が開始されました。


野辺地橋」。
弘前、黒石藩兵は橋を渡って押し出しますが、
丁度日の出の時刻となってしまい、
逆光を受けて視界が遮られ、
盛岡勢の銃撃を受けて混乱状態となります。
たまらず弘前・黒石藩兵は退却を開始し、
甚大な被害を受けてしまいました。

一方、弘前、黒石藩の別働隊は、
山間部を通って観音林から代官所を砲撃。
これに代官所付近に設置された大砲が応戦し、
ここも逆光によって弘前、黒石勢が不利となり、
南北から渡河した盛岡勢に挟み撃ちで混乱し、
司令士小島左近が討死するなど、
大きな被害を受けて撤退しました。


野辺地代官所跡」。
室町時代以前築城の野辺地城があった場所で、
一国一城令で廃城とされた後も、
要塞陣屋として代官所が置かれています。
野辺地は北前船の寄港地であり、
尾去沢鉱山の銅の搬出港でもあり、
奥州街道の宿場町でもあり、
下北半島への玄関口でもあり、
なにより犬猿の仲の津軽領に隣接しており、
盛岡藩は最重要地点と位置づけ、
代官所に要塞の機能を持たせていました。
跡地は現在図書館公民館
歴史民俗資料館となっています。

戦いは弘前・黒石藩兵の敗北によって終了。
失礼ながら津軽勢の攻め方は、
なんともお粗末な内容でした。
主家であった南部家からの独立檜山騒動
表高や官位の逆転など、
弘前藩は盛岡藩を出し抜く事も多く、
盛岡藩はしてやられる事が多かったようですが、
秋田戦争野辺地戦争などの戦闘では、
どうも盛岡藩が優勢だったようです。

この野辺地の他にも弘前藩は盛岡藩降伏後に、
盛岡藩領の濁川を焼き討ちしています。

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