黒石津軽家初代当主津軽信英は、
領内の巡察中に突然病に倒れ、
弘前城に運ばれて看病されますが、
快方へ向かわずそのまま弘前で死去。
葬儀は遺言により儒式で執り行われ、
遺骸は黒石陣屋の南東側に葬られて、
そこに御廟が建てられました。
「石黒神社」。… 続きを読む
「黒石藩」タグアーカイブ
青森県東津軽郡 小湊宿跡
小湊宿は奥州街道の107番目の宿場町。
平内地方は黒石藩領で小湊はその中心で、
代官所が置かれて武家屋敷が並び、
御家中という小さな城下町となりました。
東津軽郡平内町小湊周辺。
緑の線が奥州街道で、
青でぼかした辺りが宿場だった場所。
「大橋」。… 続きを読む
青森県青森市 野内宿跡
野内宿は奥州街道の108番目の宿場町。
弘前藩領で黒石藩領に近接していましたが、
その先には険悪な盛岡藩領が控えており、
弘前藩と黒石藩の関所が設置されました。
青森県野内周辺。緑の線が奥州街道で、
青くぼかした辺りが宿場だった場所。
「野内宿跡」。
県道259号線沿いが街道筋ですが、
宿場時代の家屋は殆ど残っていませんが、… 続きを読む
青森県黒石市 保福寺跡/黒石藩津軽家墓所
黒石藩津軽家の墓所は保福寺跡。
跡ということは寺が無いということですが、
保福寺が廃寺になったということではなく、
平成3年に火災で焼失してしまった為、
市街より東の牡丹平へ移転しています。
「保福寺山門」。
焼失してしまった元の保福寺の跡は、
墓地が残されている他は更地となっており、
更地なだけに寺域の広大さがわかります。
「津軽家墓所… 続きを読む
青森県上北郡 野辺地戦争関連史跡
盛岡藩領内に侵攻した弘前藩、黒石藩兵は、
馬門村に進入すると次々に放火を開始。
民家64戸と遍照寺が焼失してしまいます。
この馬門にあった番所も焼失しており、
虚を突かれた役人及び守備兵は、
野辺地方面に逃走しました。
「馬門御番所跡」。… 続きを読む
青森県上北郡 馬門宿跡
藩境塚より1km程南西に進むと馬門の集落。
この集落に馬門宿がありました。
北側には盛岡藩と黒石藩の藩境があり、
南部家と津軽家は仲が悪かった為に、
厳しい検問があったようです。
「馬門宿跡」。
ごく普通の集落といった感じで、
古い家屋もありません。
「馬門御番所跡」。
藩境を越えるにはここで手形を見せて、
先程の藩境塚を通る必要があります。
厳しく取り締まられてとされますが、
吉田松陰… 続きを読む
青森県上北郡 藩境塚
盛岡藩南部家は鎌倉時代から続く名門で、
戦国時代には現在の岩手県中北部と、
青森県全域を掌握していました。
しかしその一族である大浦為信は、
南部家に反旗を翻して独立を図り、
中央の豊臣政権に対する工作が功を奏して、
津軽氏を名乗って大名として独立。
幕府… 続きを読む