黒石津軽家初代当主津軽信英は、
領内の巡察中に突然病に倒れ、
弘前城に運ばれて看病されますが、
快方へ向かわずそのまま弘前で死去。
葬儀は遺言により儒式で執り行われ、
遺骸は黒石陣屋の南東側に葬られて、
そこに御廟が建てられました。
「石黒神社」。
御廟は廃藩まで陣屋内で祀られますが、
旧家臣達は藩祖の遺徳を偲び、
明治12年に神祭願を県令に提出。
現在地に社殿を造営して御霊を遷座し、
黒石神社として創建されます。
現在の宮司は黒石津軽家15代当主とのこと。
「神門」。
陣屋の大手門近くにあった廟門で、
これを移築して神門としています。
石黒陣屋の現存する建築物として、
唯一の遺構であるらしい。
「拝殿」。
木造平屋建入母屋造鉄板葺の拝殿。
「本殿(御廟)」。
この本殿が信英の御廟となっており、
2代当主津軽信敏が建立した墓碑や、
3代当主津軽政兕が建立した頌徳碑が、
その内部に建てられているようです。
石黒陣屋絵図より。
確かに大手門前に神門があり、
その先に御廟が見えますね。
津軽信英は弘前藩2代津軽信枚の次男で、
将軍徳川家光の小姓に抜擢され、
後に1000石の旗本となっています。
弘前藩4代津軽信政の家督相続の際には、
幕府は若輩を理由に信英の後見と、
信英への5000石の分知を指示。
※既に持っていた1000石は藩に返還。
以後の信英は弘前藩で藩政を担う傍ら、
自領である黒石領を経営しました。
弘前藩では[津軽家家訓]や[諸法度]を作成し、
弘前藩政の基礎を造り上げており、
また[弘前藩庁日記]の記載を開始し、
これが幕末まで続けられています。
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