盛岡藩南部家は鎌倉時代から続く名門で、
戦国時代には現在の岩手県中北部と、
青森県全域を掌握していました。
しかしその一族である大浦為信は、
南部家に反旗を翻して独立を図り、
中央の豊臣政権に対する工作が功を奏して、
津軽氏を名乗って大名として独立。
幕府が南部、津軽共に所領を安堵した為、
盛岡藩、弘前藩として存在するわけですが、
そういう経緯もあって、
両藩は犬猿の仲となっています。
藩境ではヒノキ伐採で領民の紛争が起こり、
争いの末に幕府の裁定を仰ぐ事になって、
周到に準備して裁定に臨んだ弘前藩に対し、
盛岡藩は上手な対応をする事が出来ず、
弘前藩に有利な判定が下りました。
江戸時代後期の文政3年には、
南部利用が14代盛岡藩主となりますが、
若干14歳であった為に無位無官。
一方の弘前藩9代藩主津軽寧親は、
北方警備の功績が認められた為に、
従四位下叙任のうえに高直しが行われ、
弘前藩は10万石となってしまい、
盛岡藩の8万石を超えてしまいます。
納得できない盛岡藩士下斗米秀之進らは、
寧親に辞官を求める書状を送りますが、
当然のように弘前藩側は無視。
下斗米らは寧親の襲撃を計画しますが、
密告によって計画は弘前藩の耳に入り、
寧親は別ルートを通って無事に帰国します。
計画に失敗した下斗米は相馬大作を名乗り、
江戸に潜伏していましたが、
捕らえられて処刑されました。
※相馬大作事件。
このように両家の仲は悪かったわけですが、
その両藩の藩境跡が馬門にあります。
※正確には津軽側は支藩の黒石藩領。
「馬門御番所」。
奥の建物はトイレです(笑)。
実際の番所は藩境から1km離れた場所。
番所に掲げられていた高札には、
武具や金属、紅花や紫根や黄連などの薬草、
漆や蝋や油、綿や麻やからむしなどの布、
箔椀や木製品、火薬類、人や馬などは、
持ち出す事を禁じる。
という趣旨の事が書かれていました。
つまり殆ど全部がダメって事ですね。
「藩境塚」。
訪問時は3月で雪が残っていました。
藩境に造られた4基の塚で、
藩境の二本又川を挟み2基ずつあります。
津軽(黒石藩)領に行く為には、
馬門番所で許可を得た後、
この藩境塚を通って藩境を越え、
さらに津軽側の番所の許可が必要でした。
二本又川を挟んで左が津軽領、右が南部領。
こんな小さな川で隔てられていたんですね。
4つの塚のうちのひとつ。
土を盛っただけのもののようですが、
どういう意味があるのでしょう?
双方にある事に意味がありそうですが、
よくわかっていないようです。
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