神奈川県横浜市 神奈川奉行所跡

安政5年。
日米修好通商条約が日本と米国の間で締結。
同年、英・仏・露・蘭とも条約が交わされ、
そして安政6年6月2日に横浜港が開港。
それに伴って神奈川奉行が新設されて、
神奈川奉行所が設置されます。

外国奉行酒井忠行水野忠徳
村垣範正堀利煕加藤則著の5名が、
神奈川奉行を兼務しており、
その5名が輪番で職務を行いました。
職務は他の奉行と同じく地域行政でしたが、
開港地関税外務も取り扱った為、
職務が多忙を極めているとして、
翌年には専任で2名が任命されています。

攘夷派からの襲撃治安維持に備え、
また英駐屯軍への防衛を目的に、
直轄の軍事力も整備。
取締役窪田鎮章指揮下で、
幕臣による定番の部隊が編成された他、
徴募により下番の舞台を組織して、
洋式兵制で訓練をさせています。


神奈川県立青少年センター」。
神奈川奉行所のあった場所は、
現在の神奈川県立青少年センター敷地内。
小高い丘となっており、
横浜の港が見渡せたのではないでしょうか。
ここに奉行役所が建てられており、
他にも青木町会所が設置され、
波止場近傍には運上所が置かれていました。
神奈川奉行所は維新後に閉鎖され、
代わりに横浜裁判所が置かれています。


金星太陽面経過観測記念碑」。
敷地内に建てられている碑。
神奈川奉行所のあった野毛山で、
明治7年の天体観測を記念したもの。
太陽と地球と金星が一直線に並ぶ現象が、
観測の最適な地点が日本だということで、
各国の天体観測チームが来日し、
この横浜にはメキシコが観測場を設置して、
金星太陽面経過観測を行ったようです。
明治7年の話なので一応ご紹介。


史跡 神奈川奉行所跡」碑。
敷地内に建れられている跡碑。
神奈川奉行所が関わった事件としては、
鎌倉事件という外国人殺害事件があります。
元治元年に英士官ボールドゥィン少佐と、
バード中尉が休暇を使い、
馬に乗って江ノ島鎌倉を巡遊。
鎌倉の大仏を見物して金沢方向に行く途中、
路上で2人の武士に襲撃されました。
ボールドゥィン少佐は深傷を受けて即死。
バード中尉も治療されますが、
その日の夜に死亡してしまいます。
この一件に駐日公使オールコックは激怒。
まもなく一時帰国する自分の出発までに、
犯人の逮捕と処罰を求めます。
幕府は事件を解決することを確約し、
神奈川奉行所が捜査する事となりました。
奉行所は目撃者や住民に事情聴取を行い、
下手人は二人組の若い武士と判明。
襲撃後は江戸方面に逃げたことが判ります。
・・がそれ以上の情報は得られず、
幕府は英国から再三の督促を受けました。
後に神奈川奉行所が捕縛した2人の強盗が、
彼らの首領清水清次が下手人と自供し、
清水は捕らえられて獄門となりました。
清水の自供によりもう一人の下手人は、
道中知り合った高橋藤次郎とされますが、
手掛かりがなく清水のでっち上げと結論。
清水の友人などが捕らえられますが、
どれも決定的な証拠に至りません。
それでも捜査は続けられますが、
事件は暗礁に乗り上げてしまいます。
その後、間宮一という男が捕まり、
自供で事件は解決して間宮も処刑。
しかし共謀は井田晋之介という男と自供。
先に処刑された清水の冤罪も疑われますが、
罪状書には井田は清水の変名とされました。
かくしてこの鎌倉事件が、
外国人殺傷事件初の逮捕事例。
※下手人をでっち上げた感が・・
 冤罪がとても怪しい事件ですね。


慶応2年に奉行所は定番と下番を廃止。
奉行所への出仕は文官のみが行う事となり、
配置されていた定番は別手組に再編され、
下番は歩兵組に配属されています。
警備には八王子千人同心が出張しますが、
その後に再び徴募が行われ、
足軽のみによる横浜警備が行われました。

■関連記事■
神奈川県横浜市 諸外国の領事館跡
 横浜に点在した諸外国の領事館跡。
東京都千代田区 北町奉行所跡
 江戸町方を支配した北町奉行所跡。
東京都千代田区 南町奉行所跡
 江戸町方を支配した南町奉行所跡。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です