田辺城は細川幽斎によって築かれた平城で、
幽斎は宮津城を本拠としていましたが、
隠居して細川忠興に家督を譲った際に、
そのまま隠居城として移りました。
別説では宮津城から本拠を田辺城に移し、
隠居した際に田辺城を忠興に譲って、
宮津城で隠居したという説もあります。
徳川家康が会津討伐に向かった際は、
忠興もそれに従軍していましたが、
石田三成はこれを好機と大坂城で挙兵。
近畿諸国の制圧を開始して、
細川家の治める丹後国にも侵攻しました。
僅か500余名の細川勢はこれに対抗する為、
宮津城を自焼させて田辺城に集結。
西軍1万5000に包囲されていますが、
朝廷より講和を命じる勅命が両軍に下り、
講和を受け入れて開城した幽斎らは、
丹波亀山城に預けられています。
後に関ケ原の戦いが東軍勝利で幕を閉じ、
忠興も136の首級を挙げると、
論功行賞で中津藩へ加増転封となり、
丹後国は京極高知に与えられました。
高知は廃城となっていた宮津城を再建し、
本拠を宮津城に移した為に、
田辺城は廃城となっていましたが、
高知が隠居する際に、
嫡男京極高広に宮津7万5000石を与え、
京極家の家督を継がせていますが、
甥の京極高信に峰山1万3000石、
次男京極高三に田辺3万5000石を分与し、
分家を興させています。
高三は廃城となっていた田辺城を再建し、
3代続いて豊岡藩へ転封。
代わって牧野親成が3万5000石で入り、
以後は田辺藩牧野家が廃藩まで治めました。
「田辺城大手門」。
田辺城跡は舞鶴公園として整備されており、
本丸跡と二ノ丸跡が敷地となっています。
これは平成4年に再建された櫓門ですが、
建てられた位置は堀だった場所とのこと。
「彰古館(田辺城資料館)」。
昭和15年に再建された二重櫓で、
甲冑や具足等の展示や、
田辺城の資料が無料で見学できます。
広い公園内。
本丸跡と二ノ丸跡の一部で、
堀が埋められて更地となっています。
「心種園」。
公園内の日本庭園。
細川幽斎は武人でありながら、
古今和歌集の秘事口伝伝承者であった為、
田辺城の籠城戦で幽斎が討死すれば、
その奥義が廃絶してしまう為、
これを憂慮した後陽成天皇は勅使を送り、
幽斎に開城降伏を勧めました。
しかし幽斎は最初は謝辞したようで、
勅使に古今伝授の秘伝書と、
「いにしへも今もかはらぬ世の中に
こころの種を残す言の葉」
という和歌一首を託しました。
これを伝えた場所がこの場所だとされ、
庭園名はこの時の和歌に由来しています。
田辺藩牧野家は10代続いており、
幕末の藩主10代牧野誠成は、
大坂加番や奏者番を務めており、
禁門の変では京都御所の警備、
第一次長州征伐では将軍警護を担当。
しかし第二次長州征伐の際は、
海防を理由に兵を出しませんでした。
大政奉還後も静観していましたが、
鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順。
明治2年の版籍奉還の際は、
紀伊田辺藩との混同を避ける為に、
田辺城の別名舞鶴城の名を取り、
舞鶴藩と改称しています。
【田辺藩→舞鶴藩】
藩庁:田辺城
藩主家:信成流牧野家
分類:3万5000石、譜代大名
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