京都府宮津市 宮津城跡

陣屋跡は遺構が無いケースはありますが、
それに比べて城跡は規模が大きいせいか、
建屋は撤去されても石垣土塀など、
その遺構は結構残っているものです。
しかしながらその後の町の発展で、
完全に姿を消した城もごく少数あるようで、
今回の宮津城跡はその中のひとつでした。

宮津城は細川藤孝が築いた平城で、
藤孝が幽斎と称して田辺城に隠居した際、
宮津城を息子の細川忠興に譲ります。
忠興は徳川家康会津討伐に従軍し、
留守は父幽斎が守る事になりますが、
石田三成が家康打倒を宣言して挙兵した為、
畿内の東軍諸勢力の制圧を開始。
西軍1万5000人に対して細川勢は、
僅か500人に過ぎなかった為、
宮津城守備兵は城を焼いてこれを放棄し、
田辺城に集結して立て籠もりました。
※藤孝の隠居城は宮津城という説もあり、
 自分の城では守りにくいと移動したとも。
結局は約2ヶ月の籠城戦を戦い抜いて開城。
幽斎ら細川勢は捕虜となりましたが、
後に東軍が勝利した為に開放されています。


その後に細川家は中津に加増転封となり、
代わって京極高知が12万3000石で入封。
高知は宮津城を再建して居城を宮津城とし、
これにより宮津藩が成立しました。
高知は長男京極高広に家督を譲りますが、
三男京極高三に田辺3万5000石を与え、
甥の京極高通に峰山1万3000石を与え、
宮津藩は7万8000石となります。
後に宗家は長男京極高国が相続しましたが、
隠居後も藩政に介入して高国と対立し、
また高広も高国も悪政を敷いたようで、
領内の農民が藩外へ逃散する事態が発生。
この件と親子不和を幕府に咎められ、
京極宗家は改易処分となっています。

その後に永井尚征が入封ししますが、
次代永井尚長が将軍徳川家綱の葬儀の際、
乱心した内藤忠勝に刺殺されてしまい、
永井家は無嫡断絶となります。
※後に永井家は大和新庄藩として再興。
以降は阿部家奥平家青山家と替わり、
松平資昌が入封して以後は、
廃藩置県まで本庄松平家が治めました。

前記のように宮津城は完全に姿を消し、
城があった事も知らぬ人がいるようですが、
その宮津城の数少ない遺構を巡ります。

旧宮津城を偲ぶ」。
宮津城の鉄門にあった鏡石及び、
大手橋の橋脚の敷石と波止場の船繋ぎ石
変わった題名の説明板が添えられ、
宮津武田病院前に設置されています。


「たも」の木」。
二ノ丸北東端に生えていたというタモの木
樹齢は300年を越すとされますが、
それほど大きくありません。
国道工事の際に伐採が計画されましたが、
関係者の助命嘆願によって残されており、
平成2年の下水道工事の際は、
この下を下水道が通す予定でしたが、
枯死が危惧されてた為に迂回されました。


宮津城太鼓門」。
宮津市立宮津小学校の正門は、
宮津城南側の城門を移築したもの。
この城門の傍らに太鼓櫓があった事から、
太鼓門の名が付けられたという。
ちなみにここは藩校禮譲館があった場所。


石垣跡」。
宮津市街を流れる大手川沿いには、
宮津城の遺構とされる石垣が残っています。

幕末の藩主松平宗秀は大老井伊直弼の下、
寺社奉行として志士の処罰を行っており、
文久元年に京都所司代に就任する際、
朝廷などから起用を反対されて、
任命はされますが赴任できませんでした。
姫路藩酒井忠績が代行。
その後に老中に昇進しており、
慶応元年には阿部正外と共に上洛。
一会桑政権の解体しようとしますが、
朝廷の反感を買って失敗しています。

第二次長州征伐では広島で指揮を執り、
長州藩との戦闘が不利であると悟ると、
広島藩を通じて和平交渉を試みて、
捕虜の宍戸璣小田村伊之助を独断で釈放。
これが発覚して老中を罷免されて、
宗秀は隠居謹慎処分となりました。

次代松平宗武王政復古後に新政府に恭順。
山城八幡の警備を命じられましたが、
警備する藩兵が新政府軍に発砲した為、
朝敵となって在京藩兵は武装解除しており、
宗武も入京禁止処分を受けました。
この状況に前藩主宗秀が上洛して謝罪。
認められなかった為に、
重臣2人を切腹させようとしますが、
長州藩の執り成しで許される事となり、
※宍戸、小田村の釈放の恩儀による。
宗武は謹慎を解かれています。
その後は松平姓を捨てて本庄姓を名乗り、
徳川家と完全に訣別しました。
宗秀は富士山に登頂した唯一の大名とされ、
参勤交代の際に富士山登頂を思い立ち、
幕府に許可を願い出ますが許されず、
3年後にようやく許可を得ますが、
許可が出たのは馬返しまででした。
※馬を下りて徒歩になる場所。
 一合目より下。

しかし宗秀は嘉永5年6月21日に、
無許可で山頂まで登ったようで、
大名の富士山登頂の唯一の例となりました。

【宮津藩】
藩庁:宮津城
藩主家:本庄松平家
分類:10万石、譜代大名

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