長瀞には鎌倉時代築城の長瀞城があり、
西根氏によって築かれたと伝わります。
室町時代には最上家の支城となり、
支城や当主隠居城として使われましたが、
江戸時代には一国一城令で廃城となり、
長瀞が天領となった際に、
城跡に出張陣屋が建てられたという。
後に加増されて大名となった米津家が、
所領の半分を出羽村山に移された為、
長瀞陣屋を藩庁として長瀞藩を立藩。
この長瀞藩米津家は定府大名で、
藩主の御国入りは殆どなかった為、
簡素な陣屋であったようです。
「長瀞城址」碑。
長瀞城はほぼ正方形の輪郭式平城で、
三重の堀で囲われた大規模な城でした。
地図で見れば正方形に道路が敷かれており、
当時の様子がはっきり見えています。
「二の堀」。
三重の堀のうち二の堀はほぼ現存。
特に西側は当時の雰囲気を残しています。
「陣屋跡」碑。
正方形の中心の十字路にある跡碑。
長瀞陣屋は長瀞城本丸跡に建てられました。
二の堀の内側には一の堀があったようで、
正方形の最内の道路が一の堀の跡で、
この一の堀の内側が長瀞陣屋跡。
二の堀以外の遺構はありませんが、
住宅の区画から当時を想像できます。
周辺の二寺院に陣屋門が移築されており、
その両方が大手門と伝わっています。
「禅会寺山門(長瀞陣屋大手門?)」。
「長源寺山門(長瀞陣屋大手門?)」。
推測するに片方が長瀞城の大手門で、
もう片方が長瀞陣屋の大手門なのでしょう。
長瀞藩の3~4代藩主は庄内藩の養子で、
庄内藩と非常に近い関係でした。
この為に庄内藩に味方する事となりますが、
長瀞陣屋に駐在する藩士は数名しかおらず、
4月8日に天童藩兵による攻撃を受け、
陣屋と城下の大半を焼かれています。
陣屋を焼かれた長瀞藩は、
明治2年に藩庁を上総国大網村に移し、
大網藩となっていますが、
更に明治4年に常陸国龍ヶ崎村に移って、
龍ヶ崎藩となっていますが、
間もなく廃藩置県を迎えました。
【長瀞藩】
藩庁:長瀞陣屋
藩主家:米津家
分類:1万1000石、譜代大名(定府)
■関連記事■
・山形県鶴岡市 鶴ヶ岡城跡
庄内藩酒井家の居城跡。
・山形県天童市 天童陣屋跡
天童藩織田家の陣屋跡。