金子みすゞ顕彰碑のある寿公園より、
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左側の坂を登った南部町マンション。
ここの壁面に石碑がはめ込まれています。
「伊藤博文公夫妻史蹟 梅子夫人の実家跡」。
伊藤梅子は店屋久兵衛の長女でしたが、
10歳頃に両親と死に別れたようで、
木田幸助という人の養女となっています。
この付近に幸助が住む長屋があったようで、
梅子はそこで暮らしていました。
伊藤博文が刺客を避けて亀山八幡宮に逃げ、
その境内でお茶子をしていた梅子が、
伊藤を匿った事で2人は知り合ったという。
梅子は後に養父の借金で、
置屋「いろは楼」に売られてしまった為、
伊藤が身請けしてこれを助けます。
その際に置屋の主人が出した条件が、
「梅子を妻とすること」。
当時の伊藤は妻帯者でしたが、
離縁して梅子を妻として迎えます。
・・とされていますが、
実際はどうだったんでしょう?
置屋の主人はお金をもらえるならば、
妻でも妾でも何でも良いはずですし、
身請けには親元の許可もいるそうですが、
借金で養女を売るような義父が、
そんな条件出すのかな?
妻を離縁する理由付けのような気がします。
妻は同じ松陰門下の入江九一、野村靖の妹。
そういう理由にしないと、
関係上マズイからではないのかな?
その頃の伊藤は妻と妾2人を養う程、
禄もなかった訳だし・・。
ところで身請のお金はどうしたんでしょう。
入江和作や白石正一郎、紅屋喜八ら、
勤皇商人に出してもらったのかな?
親友の井上聞多に工面してもらったのかな?
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