清川の御殿林の傍に清河神社があります。
「清河神社」。
清河八郎が明治41年に正四位を贈られた際、
地元有志らによって神社建立の動きがあり、
その後の昭和8年に建立された神社。
清河八郎を祭神としています。
「回天倡始清河八郎先生」像。
鳥居の傍にある清河八郎の座像で、
鶴岡出身の彫刻家小林誠義が制作したもの。
清川村の酒造業齋藤豪寿の子として生まれ、
幼少期に藤本鉄石に出会い感銘を受けたという。
江戸に出て東条一堂や安積艮斎に学び、
昌平坂学問所にも学んだ他、
北辰一刀流玄武館で剣術を磨き、
清河塾を開いて学問と剣術を教えています。
その後は尊皇攘夷思想を次第に強め、
虎尾の会を結成してその盟主となっていますが、
町人を無礼討ちしたことで追われる身となり、
ほとぼりが冷めるまで諸国を巡りました。
政事総裁職の松平春嶽に急務三策を上申し、
将軍上洛警護の為に浪士組の結成を発案。
これが許可されて浪士組が結成されて、
清河は浪士取締役のひとりとなり、
これを率いて京都に向かい壬生村に到着します。
しかし清河は浪士達の前で大演説を行い、
真の目的は攘夷の先鋒となる事であると力説。
浪士らの大半は反論なく従う事になり、
驚いた他の取締役が幕府に報告した為、
清河と浪士組は江戸に戻されました。
幕府は清河を危険人物とみなし、
幕臣で剣客の佐々木只三郎らに清河暗殺を指示。
清河は麻布赤羽橋で殺されました。
御殿林の脇に4つの石碑が並んでいます。
「蜩の二十五年も昔かな」句碑。
明治26年に御殿林に立ち寄った正岡子規は、
そこが戦場であった事を聞き句を詠みました。
「忠魂碑」。
10人の名が刻まれていますが、
彼らは清河に関係する人物達です。
・藤本鐵石:天誅組三総裁。幼少期に出会う。
・安積三郎:安積五郎の事か?玄武館の同門。
天誅組に参加して六角獄舎で処刑。
・伊牟田尚平:薩摩藩士。虎尾の会メンバー。
近江で強盗事件を起こして梟首される。
・嵩春斎:篆刻家。清河を匿った罪で投獄。
伝馬町牢獄で病死しています。
・西恭介:浪士組を経て新徴組士となりますが、
脱走して天狗党に参加。捕縛され刑死。
・北有馬太郎:無礼討ち事件で連座して投獄。
伝馬町牢獄で病死しています。
・木村久之丞:新徴組士でしたが脱走。
原市之進暗殺に連座して獄死。
・西川錬三:無礼討ち事件で連座して投獄。
伝馬町牢獄で病死しています。
・笠井伊蔵:無礼討ち事件で連座して投獄。
伝馬町牢獄で病死しています。
・蓮孺人:清河の妻お蓮の事。無礼討ちで連座。
麻疹で獄を出されますがほどなく病死。
「清河正明碑」。
清河八郎の顕彰碑。正明は清河の諱。
「雷山翁碑」。
清河八郎の実父齋藤雷山の顕彰碑。
清河の実家齋藤家は酒造業の営み、
代々当主は齋藤治兵衛を名乗っていました。
雷山は家業に勤しみつつ書も好み、
なかでも唐詩選を愛し全巻暗誦できたとされ、
書画や刀剣、俳諧も趣味とする文化人でした。
近くの歓喜寺は齋藤家の菩提寺で、
清河と妻お蓮の墓もあったようですが、
今回は訪問していません。
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・京都府京都市 壬生周辺史跡
浪士組は壬生村を仮宿所としています。
・和歌山県和歌山市 紀三井寺
清河を暗殺した佐々木只三郎の墓所。