紀三井寺は奈良期の唐僧為光上人開基の寺。
為光は伝教の為に唐より到来し、
諸国を巡って仏法を広めていましたが、
行脚の途中でこの名草山の地に至ります。
そして山頂に霊光を感じて登山すると、
そこで千手観音を感得したという。
為光は自ら十一面観世音菩薩像を彫り、
一宇を建立して安置しました。
それが紀三井寺の起こりとされています。
以後は歴代天皇の御幸を得て、
後白河法皇の勅願所となって隆盛を極め、
江戸時代には紀州徳川家の庇護を受けて、
歴代藩主も頻繁に来山したという。
「楼門」。
境内入口の楼門は室町時代中期の建立で、
改修経て桃山時代の様式を残します。
国指定重要文化財。
一般的に紀三井寺と呼ばれていますが、
正式名称は紀三井山金剛宝寺護國院という。
「結縁厄除坂」。
楼門をくぐると現れる231段の石段。
25段、33段、42段、61段と、
厄年を踏み越える石段が続きます。
元禄期の豪商紀ノ国屋文左衛門は、
若い頃に母を背負って登り、
お詣りした際に草履の鼻緒が切れました。
見かねて鼻緒をすげ替えてくれたのが、
玉津島神社の宮司の娘おかよで、
これがきっかけで二人は結ばれます。
後に宮司の出資金で船を仕立て、
蜜柑と材木を江戸へ送り財を成したという。
この事から商売繁盛、良縁成就に、
大きな御利益があるとされ、
結縁坂と呼ばれるようになっています。
「六角堂」。
結縁厄除坂を登り切った正面にあるお堂。
西国三十三所観音霊場の観音像が、
集められて祀られています。
「仏殿」。
鉄筋コンクリート製の仏殿。
来る途中に遠くからも良く見えました。
納骨堂にもなっているようです。
「大千手十一面観世音菩薩像」。
仏殿内の12mの木造千手観音立像。
仏殿より戻って六角堂より本堂へ。
「本堂」。
江戸時代中期建立の本堂。
本尊は秘仏の十一面観世音菩薩像ですが、
現在御開帳中です。
本堂右の石段を登って墓地へ。
この先には開山堂もあります。
ここの墓地に佐々木只三郎の墓があります。
「徳川家臣 佐々木只三郎源高城墓」。
京都見廻組与頭佐々木只三郎の墓。
会津藩士佐々木源八の三男として生まれ、
旗本佐々木弥太夫の養子となります。
神道精武流を学んで武芸に秀で、
将軍上洛の際に浪士組が結成されると、
浪士取締出役として京都に同行。
しかし清河八郎の策略により、
浪士組は江戸に戻る事となった為、
幕府は清川を危険視し只三郎ら6人に命じ、
清川を麻布一の橋付近で討ち取らせます。
その後に京都見廻組が結成されると、
只三郎は与頭勤方を拝命。
浅尾藩藩主蒔田相模守の支配下となって、
禁門の変で初陣を飾って以降、
京都を巡回して治安を守ります。
慶応元年より実質的なトップとなり、
慶応3年には坂本龍馬、中岡慎太郎を殺害。
鳥羽伏見の戦いでは見廻組を率いますが、
橋本で腹部に銃弾を受けて重傷を負い、
紀州へ逃れますが死去しました。
重傷のまま紀三井寺へ運ばれたとも、
富士山丸内で死亡して水葬されたともされ、
実際に埋葬されたのかはわかりませんが、
墓はここに建てられました。
当時の墓は生まれ故郷の会津に改葬され、
現在ここにあるのは新たに作られたもの。
隣にある只三郎の息子の墓は残っており、
改葬は心無い龍馬ファンが原因ともされ、
会津に避難させたともされています。
紀三井寺の名の由来は、
境内にある3つの井戸からですが、
これらを写真に撮るのを忘れました。
また歴代紀州藩主が参拝に訪れた際、
休憩した御成御殿もあったようですが、
どこにあったのかよくわかりませんでした。
■関連記事■
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紀州藩徳川家の居城跡。
・岡山県総社市 浅尾陣屋跡
京都見廻役蒔田相模守の陣屋跡。
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和歌山城の隣にある記念碑公園。