京都府綾部市  隆興寺/綾部藩九鬼家墓所

綾部藩九鬼家の菩提寺は隆興寺
初代九鬼隆季が綾部に入封した際に、
九鬼家菩提寺として開基した臨済宗寺院で、
藩政時代には藩主家の庇護を受け、
末寺を擁して隆盛を誇っていたという。


隆興寺」。
周辺の道が狭くて大変ですが、
もちろん車で行けます。
スペイン風邪の病没者慰霊の石仏もあり、
コロナ禍が収束するよう手を合わせました。


九鬼家廟」入口。
境内の南側にある九鬼家の墓所入口。


九鬼嘉隆公記念碑」。
九鬼家は志摩海賊衆地頭も兼ねますが、
他の地頭衆が連合した為に志摩を追われ、
残党は朝熊山へ逃亡しました。
後に九鬼嘉隆織田信長に仕え、
織田家の水軍創設に参加。
伊勢侵攻では水軍を率いて活躍し、
北畠家の和平後は志摩の地頭衆を滅ぼし、
信長より志摩を与えられています。
以後は石山合戦などを海上から支援し、
信長が倒れた後は豊臣秀吉に仕えて、
九州征伐小田原征伐朝鮮出兵等、
水軍を率いて活躍しました。
関ヶ原の戦いでは嘉隆は西軍
子の九鬼守隆東軍に別れ、
西軍が敗北したことにより答志島に逃亡。
守隆は徳川家康に父の助命を嘆願し、
これが許されると使者を走らせますが、
嘉隆は家臣の提言で自刃してしまいます。
※嘉隆を自刃させた家臣は殺されています。
守隆は5万6000石で鳥羽藩を立藩。
水軍を率いて大坂の陣でも活躍しますが、
次代の家督を巡って三男の九鬼隆季と、
五男の九鬼久隆が争うお家騒動が起こり、
幕府の裁定で久隆が減封で家督を継ぎ、
三田藩3万6000石となり、
隆季には幕府より2万石が与えられ、
綾部藩となって分かれましたが、
双方とも領地は内陸地となっています。


九鬼家墓所」。
先ほどの入口より登った場所。
隆季流九鬼家の歴代当主の墓が並びます。


左より、
九鬼隆棋(6代※説明板では十代)」、
九鬼守隆(鳥羽藩初代)」、
九鬼嘉隆(大祖)」、
九鬼隆季(綾部藩初代)」、
九鬼隆常(綾部藩2代)」の五輪塔


左より、
光徳院殿松誉貞寿大姉淑霊(2代室)」、
誠諦院殿(3代九鬼隆直)」、
「碑銘無し(2代継子九鬼隆幸)」、
大通院殿(7代九鬼隆郷)」、
護國院殿(8代九鬼隆度)」。
自然石の墓石。
隣藩の山家藩谷家の墓も自然石でしたが、
何らかの関係があるのでしょうか?
隆幸の墓石以外は碑銘が刻まれています。


左より、
子爵正五位九鬼宗隆之墓」、
九鬼咲子之墓」、
子爵正三位九鬼隆治之墓」、
大悟院」。
九鬼隆治は廃藩後の当主。
皇道宣揚会を設立しています。
隆治の長男九鬼宗隆熊野本宮大社宮司。
後に名誉宮司となっています。

4代隆寬、5代隆貞、9代隆都は、
東京の菩提寺心月院にあったようですが、
区画整備で和歌山に移されたとの事。
でも和歌山の何処なのかわかりません。

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