彦根藩井伊家の歴代墓所は彦根の清凉寺と、
東京都世田谷区の豪徳寺なのですが、
彦根藩4代井伊直興だけは、
臨済宗永源寺派大本山永源寺に埋葬。
直興は永源寺86世住持南嶺慧詢に帰依し、
この縁から永源寺が墓所と定められ、
直興の生前から墓が建てられていたという。
後に南嶺慧詢が松雲寺を建立し、
この松雲寺にも直興の墓が建てられました。
「松雲寺」。
南嶺慧詢が再興した寺院で、
開基は天正16年(1588)であるという。
直興は庶子千代之助を松雲寺の慧詢に託し、
千代之助は慧詢の許で得度しました。
※弁慧のちに本空と改めました。
後に京都に出て修行した後に病死しますが、
弟子の義空がその意志を継ぎ、
11代井伊直中に庇護され仙琳寺を創設。
本空を1世として義空が2世住持となり、
以後も彦根藩に厚い庇護を受けました。
直興の死後、慧詢は直興の遺髪を受け、
直興の遺髪墓を建立しています。
「長壽院殿正四位上前羽林
中郎將覺翁知性大居士」。
彦根藩4代及び7代藩主井伊直興の墓。
隣の墓は8人の側室のもの。
直興は2代井伊直孝の四男井伊直縄の子で、
3代井伊直澄の養嫡子となり、
直澄の死去に伴い家督を相続します。
藩政では家中に厳格に接した他、
困窮する藩士には救済も行いました。
幕政では大老に就任していますが、
次男の井伊直通に家督を譲って隠居。
しかし直通は22歳で早逝し、
次代の井伊直恒も間もなく早逝した為、
幼い井伊直惟が成長するまで藩主となり、
さらに大老にも再任しています。
※藩主再就後は直治、直該と改名。
直惟が元服を終えると再隠居し、
彦根で余生を過ごしました。
ちなみに直興は正室を置かず、
8人の側室を持ったようで、
その為か正室の墓の代わりに、
側室の合葬墓が隣にあるようです。
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