平戸藩3代藩主松浦隆信は、
2代松浦久信と正室そのの長男に生まれ、
父が早逝した為に12歳で跡を継ぎます。
母のそのは熱心なキリシタンで、
隆信は幼少期に洗礼を受けていましたが、
幕府による禁教令で棄教し、
領内でキリシタンの弾圧を行いました。
この隆信の墓が正宗寺にありますが、
近くには美しい協会が聳えています。
「平戸ザビエル記念教会」。
明治に入って禁教令が解かれた後、
平戸にもキリスト教徒が増えています。
大正2年にカトリック平戸教会が建てられ、
その後の昭和6年に現在地に教会堂が献堂。
フランシスコ・ザビエルが平戸に三度訪れ、
キリスト教の布教を行った事から、
ザビエル像が教会脇に建立され、
平戸ザビエル記念教会と改称されました。
若草色が美しい教会です。
この教会の南側に正宗寺があります。
「正宗寺」。
由緒についてはよくわかりませんが、
寺名は3代隆信の戒名正宗院からなので、
隆信の菩提を弔う為の寺院と思われます。
本堂は鉄筋コンクリート製。
本堂の斜め後ろ側に墓所があります。
「正宗院殿前壹州大守向東宗陽大居士」。
3代藩主松浦隆信の墓。
隆信の時代の平戸はオランダ、イギリス、
中華等との貿易で大変栄えていました。
その為か墓石は歴代の中で一番大きい。
隆信は臨済宗に帰依して出家しており、
向東宗陽と称しました。
「松東院月心宗玉大姉」。
2代松浦久信の正室メンシア(その)の墓。
日本初のキリシタン大名大村純忠の五女で、
平戸松浦家との政略結婚で久信に嫁ぎます。
メンシアは熱心なキリシタンでしたが、
当主の舅松浦鎮信はキリスト教を嫌い、
度々棄教を迫って不仲であったという。
しかしメンシアは信仰を棄てず、
棄教するなら実家に帰るとまで言い出し、
松浦家では棄教を諦めたようです。
久信はキリシタンではなかったようですが、
夫婦仲は悪くなかったようで、
隆信の他にも数人の子を設けており、
彼らにも洗礼を受けさせました。
久信が急死して長男隆信が家督を継ぐと、
隆信は幕府の方針に従いキリシタンを弾圧。
メンシアは密かにキリシタンを支援します。
その後メンシアは江戸在住となりますが、
信仰を棄てない為に広徳寺に幽閉され、
そこで82歳で死去しました。
メンシアは信仰を棄てなかったのか、
最終的に棄教したのかはわかりませんが、
晩年の肖像画は尼姿で数珠を持っています。
■関連記事■
・長崎県平戸市 雄香寺/平戸藩松浦家墓所(再)
平戸藩松浦家の歴代墓所。
・長崎県平戸市 最教寺/松浦鎮信墓所
初代藩主松浦鎮信の墓所。
・長崎県平戸市 普門寺/松浦熈墓所
10代藩主松浦熈の墓所。
・長崎県平戸市 平戸城
平戸藩松浦家の居城跡。