金沢は加賀前田家の本拠地。
前田利家が賤ヶ岳の戦い後に金沢に入り、
金沢城を築城して城下町を整備したもので、
加賀前田家は豊臣政権の五大老を経て、
徳川幕府では唯一の百万石大名となります。
その百万石の御城下として金沢は繁栄し、
10万人規模の人口を誇る大都市に発展。
金沢は文化的にも独自性が高く、
特に加賀友禅などの染織工芸に秀で、
金箔なども盛んに造られると共に、
独特の御茶屋文化も生まれました。
「ひがし茶屋街」。
江戸時代後期の文政3年(1820)に、
加賀藩は城下町に点在する茶屋を集め、
2つの茶屋街を置く事となります。
ひがし茶屋街は90軒の御茶屋が立ち並び、
京都の祇園にも匹敵する格式を持ち、
大変な賑わいであったとのこと。
現在も当時の建物が多く残されており、
観光地として賑わいを魅せています。
ひがし茶屋街から浅野川を渡り、
対岸の川沿いの主計町茶屋街へ。
「主計町茶屋街」。
初期の重臣富田主計屋敷があった事に因み、
主計町と呼ばれていましたが、
茶屋街となったのは明治時代以降との事。
とはいえ江戸期も隣接する母衣町と共に、
芸妓衆の住まいや旅籠などが建てられ、
北陸道沿いの浅野川大橋の袂であった為、
人々の行きかう繁華な場所であったという。
北陸道に沿って金沢城を北に迂回し、
金沢を代表する繁華街香林坊へ。
「香林坊」。
街道沿いに商店や旅籠が立ち並び、
大変な賑わいを魅せていたようですが、
明治以降も発展を遂げています。
地名の由来は比叡山の僧香林坊が還俗し、
この地の町人向田家の跡取りとなり、
家業の目薬販売で繁栄した事に因みます。
「香林坊地蔵」。
香林坊の交差点に設置されている地蔵尊。
香林坊を養子に迎えた向田兵衛は、
夢枕で地蔵尊のお告げ聞き、
藩祖前田利家に目薬を処方したところ、
たちどころに目の病が癒えたとされ、
※宇喜多秀家にも処方したという。
その夢枕に立った地蔵尊を祀りました。
後にこの周辺が大火に見舞われた際は、
この地蔵尊の周りだけ火が廻らず、
被害を受けなかった事から、
火除け地蔵とも呼ばれたという。
さらに南下して犀川を渡りにし茶屋街へ。
「にし茶屋街」。
加賀藩が設置した茶屋街のひとつ。
現在も料亭や芸妓置屋が立ち並んでいます。
当時は塀で囲まれ大門や番所を置き、
区域を隔離して遊郭としていたという。
江戸時代は石坂茶屋町と称していました。
金沢は江戸、大坂、京都に次ぐ発展を遂げ、
北陸街道の宿場でもあった為、
遊女を抱える茶屋や岡場所が発生し、
城下に無秩序に点在していたという。
これら風紀を乱す商売を藩が取り締まり、
特定の区域に集めて営業を許可し、
売り上げの一部を藩に上納させ、
場所を浅野川、犀川の外側として、
城下から追い出すカタチとなっています。
※両川は金沢城の天然の外堀にあたる。
金沢の宿場としては上記の香林坊の他、
犀川から浅野川にかけての街道沿いに、
軒を連ねていたようですが、
市街の中心地ということもあって、
当時の旅籠などの建物は皆無です。
また金沢市内には寺町や武家屋敷など、
伝統的な建物も残されていますが、
今回は街道沿いを中心に巡ってみました。
■北陸街道の宿場町
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