姫路には本徳寺が2ヶ所あります。
いわゆる船場本徳寺と亀山本徳寺ですが、
この2寺院は浄土真宗本願寺派と、
浄土真宗大谷派が分かれたもので、
元々は同じ本徳寺でした。
本願寺8世蓮如の門弟空善により、
飾磨郡英賀に開山して発展していますが、
後の羽柴秀吉の播磨攻めの際に、
戦火を避ける為に秀吉寄進の亀山に移転し、
播磨の浄土真宗の拠点となってます。
しかし慶長7年に本願寺は東西に分裂。
本徳寺は姫路藩藩主池田輝政の政策により、
西本願寺に属する事になりました。
その後に池田家が転封されると、
本願寺と同じく本徳寺も分裂する事となり、
東本願寺派は船場に別の本徳寺を建立し、
2つの寺はそれぞれ発展する事となります。
「大門」。
嘉永年間建立の切妻造り本瓦葺の大門。
奥には目隠し塀も建てられており、
外から内を覗くのを防いでいました。
亀山本徳寺の伽羅群。
大部分が江戸時代中期の建立であるという。
正式な対面所である大広間、
台所兼食堂となっていた庫裏、
大広間の控えの間であった櫻の間、
内向きの接客が行われた書院等々、
県や市の文化財として指定されています。
「本堂」。
西本願寺の北集会所を移築した本堂。
大集会所は新選組屯所となっていたもので、
亀山本徳寺の本堂が明治元年に焼失した為、
明治6年に西本願寺から移築されました。
新選組は隊士増加に伴って手狭となり、
新たな屯所を西本願寺の北集会所に指定。
本願寺は織田信長と長きに渡り抗争を続け、
これを毛利家が支援していたという縁から、
西本願寺は長州藩寄りであった為、
これに対する牽制の意味もあったという。
新撰組は北集会所で拷問を行ったり、
境内で豚を飼育して食べたり、
砲術の訓練を行ったりしています。
極楽に地獄を合併したるが如しと表され、
西本願寺は一刻も早く立ち退かせようと、
経費負担し不動堂村に屯所を用意しました。
新選組が西本願寺から立ち退くと、
殺生なども行われた不浄の建物であった為、
西本願寺は北集会所を即座に解体。
これを本堂を焼失した亀山本徳寺の要望で、
その本堂として移築される事となります。
部材が京都より淀川を下って海に運ばれ、
海路で姫路に運ばれて移築されたという。
この移築された本堂の柱には、
隊士の付けた刀傷が残っているそうです。
■関連記事■
・京都府京都市 西本願寺
浄土真宗本願寺派の本山。
・兵庫県姫路市 船場本徳寺
姫路にあるもう一つの本徳寺。