西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山。
その境内は世界遺産にも登録されてます。
本願寺は親鸞の廟堂を曾孫覚如が寺院とし、
8世蓮如の代に迫害を受け越前吉崎に移り、
数度の移転後に山科本願寺を建立。
後に大坂石山坊舎も造営していますが、
山科本願寺は細川晴元に焼き打ちされた為、
石山坊舎を本山とし石山本願寺と称します。
織田信長との10年に渡る石山合戦の末、
石山本願寺は明け渡されますが、
織田政権から豊臣秀吉政権への移行を経て、
秀吉の寺地寄進を受けて天満本願寺が建立。
後に秀吉の命で堀川六条に移転しますが、
11世顕如の長男教如の派閥と、
三男准如の派閥が争って分裂。
徳川家康が烏丸六条を寄進すると、
「堀川六条の本願寺」と、
「烏丸六条の本願寺」に完全に分裂し、
堀川六条本願寺の12世は三男准如、
烏丸六条(現烏丸七条)本願寺の12世は、
長男教如となり両派は別の道を歩みます。
堀川六条の本願寺は西本願寺と通称され、
幕末期には新選組の屯所が置かれています。
「御影堂門」。
境内東側にある巨大な門のひとつ御影堂門。
真宗寺院は原則として東向きとのこと。
この通りの向いに総門が残されており、
御影堂門が正門であるのがわかります。
国指定重要文化財。
「御影堂」。
親鸞聖人像が安置されている御影堂。
御影堂門から入った正面にあります。
本願寺のはじまりが親鸞の廟堂だった為、
御影堂は本堂の阿弥陀堂より巨大。
寛永13年(1636)に建立されたもので、
国宝建築物に指定されています。
「阿弥陀堂」。
本尊の阿弥陀如来立像を安置する阿弥陀堂。
御影堂とは渡り廊下で繋がっています。
こちらも国宝建築物。
阿弥陀堂北側にはかつて北集会所があって、
新選組はその北集会所や太鼓楼を屯所とし、
矢来柵で区切って使用していたという。
その北集会所は後に亀山本徳寺に移築され、
現在も姫路市亀山に現存しているようです。
太鼓楼は境内に現存していますが、
周辺が工事中で境内からは見学できず、
外からの方かよく見えるとのことで、
阿弥陀門より寺域の外へ。
「阿弥陀堂門」。
境内東側にある二つの巨大な門のひとつ。
御影堂門に比べ豪華な装飾です。
国指定重要文化財。
「太鼓楼」。
境内北東隅に建つ太鼓楼。
時報や法要の合図の太鼓が打たれたという。
山科にもこのような太鼓があったようで
この太鼓楼は親鸞聖人五百回忌に際し、
大規模な整備が行われて建立されたもの。
こちらも新選組が接収したようですが、
それほど大きな建物でもないので、
メインの屯所は北集会所の方でしょう。
西本願寺は長州藩毛利家と縁が深く、
長州藩の尊皇攘夷派は西本願寺を頼りとし、
当時の宗主広如も尊攘思想を強めており、
周防の海防僧月性を招くなどした他に、
文久3年に朝廷に1万両献金もしています。
長門や周防の出身僧も多かったようで、
自然と長州寄りとなっていましたし、
本願寺と毛利家は石山合戦からの縁で、
石山に籠城する本願寺に対し、
毛利家は兵糧補給等の支援を行いました。
禁門の変では長州藩兵数十名を匿い、
国許に逃がすなどしています。
幕府も西本願寺の姿勢には警戒しており、
新選組の増加で壬生村が手狭となった為、
あえて西本願寺を新選組の屯所とさせます。
新撰組は訓練と称して空砲発射を行い、
猪鍋などの生臭を境内で食し、
法度を破った者の切腹も境内で行いました。
いわゆる嫌がらせを行ったようで、
結局は西本願寺は大名並みの屋敷を用意し、
新選組に屯所の移転を促しています。
■関連記事■
・兵庫県姫路市 亀山本徳寺
北集会所が本堂として移築されています。
・大阪市中央区 大坂城跡
かつて石山本願寺があった場所。
・山口県柳井市 妙円寺/月性関連史跡
海防僧月性の関連史跡。
・京都府京都市 八木家
新選組屯所跡。芹沢鴨の暗殺現場。