木屋瀬宿は長崎街道の宿場町で、
筑前国内に六宿あった宿場のひとつ。
※黒崎宿、木屋瀬宿、飯塚宿、内野宿、
山家宿、原田宿の六宿。
宿場と遠賀川の水運業で栄え、
現在も当時の町並みが残っています。
「長崎街道 筑前六宿ノ内 木屋瀬宿」。
現地案内板より。
宿場は中央付近で屈折しており、
その角に本陣業務を行う藩営の御茶屋、
民間の町茶屋、問屋場などがありました。
旅籠は14~15軒あったという。
八幡西区木屋瀬周辺。緑の線が長崎街道で、
遠賀川を渡る青い線は赤間宿への赤間道。
青でぼかした辺りが木屋瀬宿跡です。
南側より散策。
「西構口跡」。
長崎側からの入口で石垣が残されています。
外側は四ッ辻となって赤間道が通っており、
遠賀川を越えて赤間宿へ至ります。
「村庄屋跡」。
村庄屋を務めた灰屋松尾家の建屋。
江戸末期の建築とされます。
「旧高崎家(伊馬春部生家)」。
和蠟燭や醤油を取り扱った柏屋高崎家の跡。
昭和の放送作家伊馬春部の生家とのことで、
内部公開と共に遺品も展示しています。
「船庄屋跡」。
船庄屋を務めた油屋梅本家の跡。
木屋瀬宿は遠賀川に隣接していた為、
年貢米等を運ぶ水運業が盛んで、
その管理を任されていたようです。
本業は酒造業であったようですが、
明治以降は醤油醸造業に転業しており、
昭和10年代まで続いていたという。
「長崎街道木屋瀬宿記念館」。
本陣の役割を果たした藩営の御茶屋と、
町茶屋(脇本陣)2軒が隣接していた場所。
町茶屋は長崎屋中村弥平次と、
薩摩屋石橋甚三郎が務めたとの事。
嘉永6年にロシア使節応接掛が到着した際、
福岡藩主黒田長溥は3日も前から待ち受け、
全権の筒井政憲や川路聖謨と会見しました。
蘭癖と称されていた長溥は、
2人に異国の事を色々と尋ねた他、
佐渡奉行の経験のある川路に対し、
金山について色々と質問したという。
※当時金山の試し掘りをしていたという。
これに参った川路らは会見が終わると、
宿に戻ると早々に着替えて出立し、
逃げる様に次の飯塚宿に急いだようです。
「本町の街並み」。
東側(北側)は特に当時の様子を残しており、
左右の町家が雰囲気を醸し出しています。
ただ生活道路の為か交通量が多く、
皆結構車を飛ばしており、
子供を歩かせるのは少し怖い。
「もやいの家」。
鏝絵が面白いお土産処。
訪問時は閉店中でした。
街道を逸れて永源寺へ。
「木屋瀬宿本陣の門」。
永源寺に御茶屋の門が現存しています。
これは明治3年の本陣廃止に伴い、
永源寺の山門として移設されたもので、
後の大正12年に山門が新築される為に、
境内の側面に移されました。
「江戸あかりの民藝館」。
提灯や行燈など照明具を展示しています。
こちらも訪問時は閉店中でした。
「東構口跡」。
岡森用水路が通る東構口の跡。
小倉側からの宿場入口でした。
長崎街道は九州諸大名が参勤で往来し、
カピタンや唐人の江戸参府にも使われ、
多くの尊攘志士達も通行しました。
勿論それらは木屋瀬宿も通っていたようで、
日記等の文献にも登場しています。
■長崎街道の宿場町
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