轟木宿は長崎街道の佐賀藩領東端の宿場町。
対馬藩領と轟木川を境にして分かれており、
140軒程で宿屋や茶屋が多かったという。
鳥栖市轟木町周辺。緑の線が長崎街道。
青でぼかした辺りが轟木宿跡。
東側より散策。
「境橋」。
轟木川に架かる橋で渡ると佐賀藩領。
現在はRC製の橋となっています。
この轟木川は佐賀藩側では番所川と呼ばれ、
対馬藩側からは西郷川と呼ばれていました。
「長崎街道・轟木番所」跡。
橋を渡った所の家先にあります。
佐賀藩は番所に侍1人と足軽9人を配備し、
旅人を厳しく取り締まっていました。
これは二重鎖国と称される藩の体質と共に、
密貿易の抜け荷を警戒していたようです。
宿場は宅地化されて面影はあまり無し。
「日子神社」。
旅人が旅の無事を祈願した神社。
英彦山権現を崇敬した藩祖鍋島直茂が、
所領の鬼門となるこの地に勧請。
始めは英彦山神社と称しており、
明治期に日子神社と改称しています。
当時はもう少し西側にあったという。
「嗚呼忠士之碑」。
境内にある西南戦争等の殉難碑。
佐賀の七賢人のひとり副島種臣の書で、
明治23年に建立されたもの。
碑の詳細についてはよくわかりません。
神社を出て南へ進む。
「中町の街並み」。
宿場町の面影は殆どありませんが、
江戸期の建物と思われるものもありました。
この中町に多くの旅籠があったとされ。
御茶屋は中町の東側であったようですが、
宅地化されて正確な場所は不明。
道は更に折れて西側へ。
宿場は薬師川まで続いていました。
「薬師橋」。
薬師川へ架かる橋。
街道は次の中原宿へ向かいます。
橋の傍には轟木薬師堂があり、
こちらも旅人を見守っていました。
■長崎街道の宿場町
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