長崎県長崎市 浦上天主堂

浦上長崎の北にあった小さな農村でしたが、
キリスト教伝来より住民に信徒が多く、
その為に禁教後も信仰を捨てきれない住民は、
隠れキリシタンとなってその教えを守り、
密かに信仰を代々伝えていました。

幕末における長崎開港に伴い、
外国人居住区東山手南山手に造られ、
この居住区に大浦天主堂が建立されます。
そこで信徒発見が伝えられていますが、
当時の日本は未だ禁教しており、
彼らはその後に浦上四番崩れを経験し、
浦上のキリシタン住民は各地に配流
厳しい弾圧を受けました。

その後、禁教が解消された為に、
配流された信者達は浦上に戻り、
明治12年に小さな聖堂を築いています。
これが浦上天主堂の前身となり、
翌年に浦上村の庄屋高谷邸の跡地に移転。
浦上一番崩れに関わった庄屋の子孫宅。
明治28年には大聖堂の起工が開始され、
19年の歳月を要して浦上天主堂が完成し、
大正3年に献堂式を挙行されました。

浦上天主堂は東洋一の大聖堂とされましたが、
昭和20年の長崎への原爆投下で破壊され、
現在の天守堂は後に再建されたもの。

浦上天主堂」。
現在はカトリック浦上教会となっており、
長崎大司教区司教座聖堂として、
日本最大のカトリック教会となっています。


「旅」殉教への門出」。
天主堂正面左側にあるレリーフで、
信徒発見150周年を記念して造られたもの。
浦上四番崩れで配流された信徒達は、
この配流を[]と呼んでいたようで、
津和野福山に流された彼らは、
棄教を迫られて苦しい拷問を受けました。


信仰之礎碑」。
[旅]を終えた信徒らを称えたもので、
公教復活50年記念に建立された碑。


拷問石」。
信仰之礎碑の傍らに置かれています。
萩に配流された信徒らは許されるまでに、
28人の死者を出しました。
彼らは棄教を迫られていますが、
なかなか転向しなかった為に、
遂には拷問が行われるに至ります。
この拷問石もそれらに使用されたもので、
萩の牢番長寺本源七により持ち帰られ、
後に子孫によって譲渡されたもの。

天主堂は新しいものですが、
その周辺には遺構が多く置かれています。
その中でも最大のものが旧天主堂の鐘楼で、
落下した状他のまま保存されています。

旧天主堂の鐘楼」。
原爆で吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の一部。
被爆時のままの旧天主堂本体唯一の遺構。
よくぞ残してくれたものだと感心します。
この巨大なものが30mも飛ばされました。

浦上天主堂を出て平和公園へ。
ついでというのは憚られますが、
是非とも見ておきたいと思いました。

平和祈念像」。
被爆10周年記念に長崎市が建設した巨大像。
長崎出身の芸術家北村西望の作品で、
広島の原爆ドームと同じように、
長崎の原爆の象徴となっていますが、
ここが爆心地ではありません。
ここは長崎刑務所浦上刑務支所の跡地で、
爆心地から一番近い建物であったようです。
爆風で受刑者と職員134名全員が絶命し、
その建物も全て吹き飛ばされたという。

更に少し歩いて爆心地へ。

原子爆弾落下中心地碑」。
当時は別荘のテニスコートであったという。
長崎の原爆ファットマンは、
広島のリトルボーイの1.5倍の威力とされ、
その一撃で約7万人が死亡したという。
これは広島の約13万人より少ないのですが、
当時の人口差と長崎の地形によるもので、
山に囲まれた地形が爆風を遮断し、
その被害は軽減されてたようです。
とはいえ約7万人の死者数は、
東日本大震災の約1万6000人と比べても、
あまりにも大きな被害といえるでしょう。


浦上天主堂遺壁」。
爆心地の傍に移築された旧天守堂の遺構。
浦上天主堂再建の際に移築保存されたもので、
原爆の凄まじさを物語っています。

今回は幕末維新とは大きくかけ離れましたが、
原爆は長崎では避けて通る訳にはいきません。
早く江戸時代に戻りたいところですが、
次回ももうひとつだけ原爆遺構を訪問します。

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