福岡藩中老野村家の菩提寺は、
その所領鯰田の晴雲寺ですが、
代々の墓所はどこにあるのか不明。
福岡藩飯塚市 晴雲寺/野村家墓所
野村家は代々中老を務めた家柄で、
幕末の当主野村東馬は保守派に属し、
乙丑の獄での弾圧に関与しており、
維新後にその罪を問われ切腹しています。
その初代は野村太郎兵衛祐勝で、
黒田二十四騎に数えられる人物。
播磨国の国人曽我一信の子で、
黒田節で知られる母里太兵衛は実兄で、
妻の実家の野村家を相続し、
黒田官兵衛孝高に仕えて功を挙げており、
城井鎮房暗殺の際には一の太刀を浴びせ、
文禄の役でも戦功を挙げています。
その後に中津で死去しており、
同地の円応寺に埋葬されたという。
「本堂」。
天正15年(1587)創建の浄土宗寺院。
開基は黒田考高で開山は真誉見道上人。
山門や鐘楼、観音堂は古いものですが、
本堂は鉄筋コンクリート製です。
黒田家は慶長5年(1600)に福岡へ移り、
同名の円応寺を福岡で建立。
本堂裏手にある河童の墓へ。
「河童の墓」。
江戸時代の中期頃の円応寺住職静誉上人は、
河原で相撲を取って遊んでいる河童達に、
「生きることの苦しみも知らずに、
遊び暮らしている哀れな河童よ」
と言い放ちました。
それを聞いた河童達は怒りますが、
静誉上人は、
「世の中は楽しいことばかりではなく、
苦しいことも多い」と諭したという。
その数日後の夜に沢山の河童がやって来て、
3匹の河童の頭領が静誉上人に対し、
「上人の言葉に感じ入った。
人の生きる苦しみを知り、
後世で敬われるようになりたいので、
上人に教えを請いに来た」と言いました。
静誉上人は河童たちを本堂に招き入れ、
30日余りの修行を行わせた後、
3匹の頭領に戒名を授けたという。
河童達はお礼に火事から守る事を約束し、
境内に池を造るように頼んだとされ、
現在でもその池が残っています。
この墓はその3匹の河童の墓とされ、
河童達の戒名本誉覚圓信士、本誉覚心信士、
本誉覚源信士の塔婆が供えられ、
毎年追善供養が行われているとのこと。
また中津にある山国川を渡る時、
「円応寺の門徒だ」と言うと、
水難から免れるとも伝わっています。
ところが実はこれは野村太郎兵衛の墓で、
太郎兵衛を良く思わない人達もいた事から、
これを守る為に河童の墓としたとされます。
中津は宇都宮家に400年も統治されており、
これを慕う領民も多かったようで、
太郎兵衛はその当主を暗殺した人物の為、
破壊を恐れ河童伝説が使われたのではと、
推測されているようです。
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