延応寺は生野にある真言宗の寺院です。
弘法大師が各地を巡錫する途中、
生野高原にある達磨ヶ峰に堂を建て、
自ら彫った千手観音を安置。
後の延応元年(1239)にその堂が炎上し、
その中から千手観音が舞い上がり、
ケヤキの巨木の梢にとまって、
毎夜光を発したという。
これを諸国行脚中の長遍上人が見て、
土地の人々と共に新たに堂を建立し、
これを祀ったのが縁起とのこと。
この霊験を伝え聞いた四条天皇は、
建立時の年号を寺名とするように命じ、
延応寺と称されるようになります。
「延応寺」。
かなりの急坂の参道で山門等はありません。
途中の駐車場まで車で登りました。
「本堂」。
秘仏の千手観音が安置される本堂。
21年毎に開帳されるようです。
延応寺は数度の火災に見舞われており、
境内の堂宇は全て昭和3年以降の再建。
「大ケヤキ」。
本堂前に聳える樹齢千年以上の大木。
この木の梢に千手観音がとまったという。
数度の火災の難を逃れた霊木です。
墓地には生野奉行の墓があります。
「義照院満山清澄居士位(右)」、
「慈照院密園静遊大姉位(左)」。
8代生野奉行酒井七郎左衛門定行夫婦の墓。
生野奉行所には享保元年に廃止されるまで、
11代の奉行が派遣されていますが、
生野奉行で唯一生野町内に墓所があります。
酒井は小野大橋の架橋や山神社の祭礼再興、
銀山の採掘量を増やすなど、
生野銀山の活気を取り戻した人物だという。
文久3年10月11日午後2時頃。
澤宣嘉を擁した平野国臣ら生野義挙士らは、
延応寺に到着して一時本陣とします。
住職は義挙士のひとり本多小太郎と懇意で、
その縁からここが選ばれました。
彼らはここから生野代官所に使者を派遣し、
生野代官所の明け渡しを要求。
これが受け入れられた為に、
延応寺から代官所に移動しています。
滞在中の若い義挙士らは、
境内で駒回しで遊んでいたとされ、
澤は姉小路五郎丸と名乗っていたという。
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