六角獄舎は京都にある幕府の牢獄で、
京都の罪人を収監し処断する場所。
正式な名称は三条新地牢屋敷でしたが、
六角通りにあった為に六角獄舎と呼ばれ、
京都町奉行の管轄であったようです。
「山脇東洋觀臓之地」碑、
「殉難勤王志士忠霊塔」。
六角獄舎跡は更生保護法人盟親となっており、
その入口には碑や忠霊塔が建てられています。
ここは宝暦4年(1754)に医学者山脇東洋が、
京都所司代の許可で腑分けを行った場所。
その成果を解剖図録蔵志に記録したという。
六角獄舎には多くの尊攘浪士らが収監され、
取り調べの後に処刑されたりしていますが、
元治元年の禁門の変で発生した火災は、
※通称どんどん焼け。
六角獄舎の手前まで燃え広がり、
西町奉行滝川具挙は尊攘囚人の処刑を断行。
平野國臣ら生野の変の収監者や、
水郡善之祐ら天誅組の変の収監者、
古高俊太郎ら池田屋事件の収監者が斬首され、
その残劇は3時間にも及んだという。
「勤王志士平野國臣外數十名終焉之址」、
「日本近代医学発祥」。
こちらは道路沿いにある石標。
結局火の手は六角獄舎までは及ばず、
獄舎に被害は及ばなかったようで、
その後も六角獄舎は続き続き、
明治18年まで獄舎は利用されました。
六角獄舎跡の北側の武信稲荷神社へ。
「武信稲荷神社」。
平安期に右大臣藤原良相が創祀した稲荷神社。
延命院と勧学院の守護神として祀られ、
後に藤原武信という人が厚く信仰した為、
武信稲荷神社と呼ばれるようになったという。
※この藤原武信の詳細は不明。
「縁の木(榎)」。
樹齢850年以上のエノキ。
坂本龍馬の妻楢崎龍の父で医師の楢崎将作は、
勤皇家だった為に六角獄舎に収監されますが、
当時の女性は面会が出来なかったようで、
龍馬とこの木に登って様子を確かめたという。
その後龍馬は命を狙われるに至り、
龍馬は潜伏して2人は離れ離れになりますが、
お龍は龍馬の身を案じて行方を捜し廻り、
ふと2人で登ったこの木を思い出して訪れる。
そこには[龍]の文字が刻まれており、
龍馬独特の文字だとお龍は気づき、
これは龍馬がお龍に伝言したもので、
龍馬が生きて京都にいる事を確信したという。
非常にロマンティックなお話ですが、
2人の出会いは父楢崎将作の死後ですし、
[龍]の字が自分への伝言だとするのは、
なんと想像力が豊かな事でしょう。
この逸話の出所はどこかわかりませんが、
その都合の良い思考からすると、
お龍本人かもしれませんね。
実際に木に登ると獄舎の中を見れたようで、
木に登って火災の様子を見ていた子供が、
平野らの処刑を目撃したという話もあります。
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