大館城を落とした盛岡藩勢は、
羽州街道を南下して小繋まで進軍。
久保田藩勢は荷上場まで後退し、
米代川を挟んで両軍が睨み合いました。
やがて新政府軍の援軍として佐賀藩及び、
小城藩の約7百名が荷上場に到着し、
明治元年8月29日に総攻撃を開始。
楢山佐渡率いる盛岡藩を押し返し、
9月6日に大館城を奪還してます。
この一連の戦闘で戦死した8名が、
二ツ井町の清徳寺に埋葬されています。
「清徳寺」。
元々は真言宗の寺院だったようで、
長谷寺と称して荷上場にありましたが、
後に佐竹家菩提寺天徳寺の末寺となり、
曹洞宗に改宗して清徳寺と改めています。
数度の移転後に比井野に落ち着いたようで、
現在地は2度目の移転とのこと。
「肥州藩八勇士の墓」。
境内墓地にある佐賀藩士らの墓所。
明治14年の明治天皇東北巡幸の際に、
同行した参議大隈重信が代拝しています。
左から、
「官軍肥州小城藩 香田市助墓」、
「官軍肥州藩 村山又兵衛墓」、
「官軍肥州藩 内田祐八墓」、
「官軍肥州藩 久保幸之助墓」、
「官軍肥州藩 西村藤一郎墓」。
小城藩士香田市助は早口で戦死。
佐賀藩士村山又兵衛は坊沢で戦死。
同藩士内田佑八、久保幸之助、
西村藤一郎は共に大館で戦死しました。
右から、
「官軍肥州藩 原喜惣太墓」、
「山内上無呂村儀平墓(破損で読めず)」、
「大日小路村弥平墓(破損で読めず)」。
佐賀藩士原喜惣太は坊沢で負傷し、
二ツ井に運ばれて田口忠三郎宅で戦病死。
小城藩の兵夫儀平と弥平は、
十二所で戦死しています。
清徳寺のある比井野に本陣が置かれた縁で、
ここに埋葬されたとされており、
毎年秋に追悼の集いが行われるとのこと。
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