寛永寺谷中墓地にある清水徳川家の墓所。
清水徳川家は御三卿のひとつで、
田安徳川家、一橋徳川家と同じく、
徳川将軍家に後嗣なき場合に備え、
9代将軍徳川家重が興させた御連枝。
「清水徳川家墓所」。
清水家の墓所は田安家や一橋家とは違い、
塀には囲まれておらず墓域も小さい。
元々は寛永寺の塔頭凌雲院の墓地にあり、
※廃寺:国立西洋美術館辺りにあった。
昭和初~中期頃に改葬されたようです。
写真右手前から、
「清水徳川家累代墓(墓碑銘無)」、
(4代当主徳川斉明の墓石を使用)
「體門院殿真際彰善大童子」、
(2代当主徳川敦之助の墓)
「貞章院殿」、
(初代正室田鶴宮貞子の墓)
「俊徳院殿」。
(初代当主徳川重好の墓)
清水家は9代将軍家重の次男重好を祖とし、
御三家に次ぐ家格であったようで、
屋敷は北の丸の田安家屋敷の東にあり、
近くにあった清水門に因み、
清水徳川家と称されました。
※武蔵、上総、下総、甲斐、大和、和泉、
播磨等に10万石の領地があった。
初代重好には実子が出来ずに断絶。
後に11代将軍徳川家斉が、
五男敦之助を当主として再興させますが、
敦之助は当主就任の翌年に夭逝。
以後は3代徳川斉順(紀州家を相続)、
4代斉明(19歳で死去)、
5代徳川斉彊(紀州家を相続)と、
子沢山の家斉が実子を当主に据え、
斉彊の紀州家相続以降は当主不在となり、
20年後の慶応2年になって、
徳川慶喜の弟徳川昭武が6代を相続。
しかし昭武は明治元年に水戸家を継ぎ、
またもや当主不在となります。
「寛光院修性養徳大居士」。
7代当主徳川篤守の墓。
明治3年に清水家を継いだ昭武の甥。
水戸藩10代徳川慶篤の次男で、
明治17年に伯爵となっていますが、
経済的理由で負債を抱え、
訴訟事件にまで発展しており、
明治32年に爵位を返上しています。
※清水家は長男徳川好敏が継ぎ、
陸軍の航空技術分野で活躍し、
日本初の有人飛行に成功。
この功績で授爵されて男爵となり、
華族に返り咲いています。
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