稲葉正成の継室於福は斎藤利三の娘で、
母は稲葉一鉄の娘でした。
父は明智光秀に従って討ち取られ、
於福は母と共に稲葉家を頼り、
親戚の公卿三条西公国に預けられ、
公家の素養を身に着けたようで、
後に叔父稲葉重通の養女となって、
林家からの婿養子正成に嫁いでいます。
正成は関ヶ原の戦いの際、
当時の主君小早川秀秋を説得し、
東軍に寝返らせていますが、
秀秋は関ヶ原から僅か2年で病死。
小早川家は断絶して浪人となりました。
徳川秀忠嫡子竹千代の乳母が募集され、
於福が志願して採用されると、
於福は正成と離縁して乳母に採用。
後に竹千代は3代将軍徳川家光となり、
於福は将軍様御局として、
大奥公務を取仕切るようになります。
多くの側室を大奥に送り込み、
また大奥の制度や役職を整備。
老中をも上回る権力を握りました。
後に於福は御所昇殿まで果たし、
春日局の名と従二位を手に入れています。
正成は於福の乳母採用後に召し出され、
後に松平忠昌の附家老となりますが、
忠昌の福井藩転封の際に従わず、
一時懲罰を受けた後に独立大名となり、
真岡藩を立藩しますが程なく死去。
家督は息子で於福の子稲葉正勝が相続し、
後に小田原藩初代藩主となっています。
「養源寺殿前丹州太守
右隠紹太大居士(右2)」、
「稲葉家累代之墓(左)」。
小田原藩初代藩主稲葉正勝の墓と、
淀藩稲葉家の累代墓。
政勝は正成と於福の子で、
竹千代(家光)に小姓として仕え、
家光の将軍就任後は老中となっており、
柿岡藩2万石を与えられています。
正成には長子稲葉正次がいましたが、
春日局の子だった為に政勝が嫡嗣となり、
正成の死後に家督を相続。
自らの所領と正成の遺領2万石で、
真岡藩4万石の藩主となりました。
後に小田原藩8万5000石に加増されますが、
幕政の激務が祟って体調を崩し、
38歳の若さで死去しています。
養源寺墓地は稲葉家の歴代墓所でしたが、
明治以降は墓参無く長らく放置され、
関東大震災で墓所は破壊された為、
後の昭和40年に整理されており、
歴代藩主は累代墓に合葬されています。
「純正院殿従五位下前濃州利史
厚嶽道裕大居士(右)」、
「輪光院殿淨質慧鑑大姉(左)」。
淀藩6代藩主稲葉正弘の墓と、
その継室員姫の墓。
正勝や累代墓から離れた場所に、
6代正弘夫妻の墓が残されています。
正弘は5代稲葉正益の嫡男で、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
家督相続後僅か2年で病死。
7代は実弟稲葉正諶が相続しました。
継室員姫は会津藩4代松平容貞の娘。
この2基が残された理由は不明ですが、
たぶん状態が良かったからでしょう。
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