養源寺にある椎谷藩堀家の墓所。
藩祖(初代当主)堀直之は大坂の陣で活躍し、
薄田兼相を討ち取る等の戦功を挙げ、
武蔵国八幡山に1000石を給され、
後に椎谷に5000石で加増転封されました。
寛永8年(1631)には江戸北町奉行となり、
寛永10年(1633)に4000石を加増され、
新田分含め9500石となります。
正室が春日局の姪であった縁で、
※柴田勝全の娘。
小田原城の普請奉行も務め、
寛永17年(1640)には寺社奉行に就任。
寛永19年(1642)に死去しており、
稲葉家との縁から養源寺に葬られました。
「椎谷藩堀家墓所」。
養源寺墓地の南端にある椎谷藩堀家の墓所。
2区分されてはいますが、
どういう分け方なのかは不明。
前期と後期や当主とそれ以外ではない模様。
直之の長男堀直景は書院番、使番を務め、
家督相続前から2000石を領しており、
父の遺領9500石を相続した際、
末弟堀直氏に1500石を分与して、
1万石で正式に諸侯に列します。
※直之は4000石加増の際に、
上総国苅谷に陣屋を移しており、
直景が立藩した当時は苅谷藩でした。
見落としかもしれませんが、
藩祖直之、苅谷藩初代直景、
上総八幡藩初代堀直良、
椎谷藩初代堀直宥、2代堀直央の墓と、
椎谷藩6~7代の墓は見当たりません。
直央までは宝篋印塔の可能性もありますが、
その特定には至りませんでした。
という訳で6、7代を除く3代から紹介。
並び方がバラバラなので順不同です。
「天章院殿従五位下前江州刺史
徳倫宗機大居士(右)」、
「孔徳院殿従五位下前阿州刺史
天倫宗慶大居士(右2)」、
「觀功院殿従五位下前遠州刺史
耆宗英大居士
慶壽院殿諦大姉(右3)」、
「堀直舊の棺(奥)」。
9代藩主堀直記の墓、8代藩主堀著朝の墓、
3代藩主堀直恒の墓、
及び4代藩主堀直舊の木棺。
3代直恒は初代直宥の四男で、
10年の治世の後に死去。
8代著朝は6代堀直著の次男で、
7代堀直宣の急逝により家督を相続。
領内経営の失敗して一揆が勃発し、
幕府の知る事となり強制隠居となります。
代わって西尾藩より松平乗厚が入り、
9代直記として家督を相続し、
15年の治世の後に死去しました。
奥は4代直舊の木棺とのこと。
「俊良院殿従五位下前吏部尚書
顕宗忠大居士(右)」、
「懿徳院殿従五位下前飛州刺史
徽山宗戢居士(左)」。
4代藩主堀直舊の墓と、
5代藩主堀直喜の墓。
上記木棺の主4代直舊は2代直央の長男。
叔父の3代直恒の養子となり、
直恒の死去に伴い家督を相続しました。
若年寄等を務めていますが、
僅か9年の治世で死去しています。
5代直喜は3代直恒の長男で、
直舊の養子となりその死去で家督を相続。
こちらも僅か3年で死去しました。
「顕功院殿従五位下前雲州刺史
徳林永昌大居士(右)」、
「恭性院殿従五位下前雲州刺史
天祐宗理大居士(左)」。
12代藩主堀之敏の墓、
10代藩主堀直温の墓。
10代直温は岡山藩5代池田治政の五男。
男子のいない9代直起の婿養子となり、
養父の死去に伴い家督を相続します。
就任後に日光祭礼奉行を務め、
大坂加番に転じますが病で辞退し、
僅か4年で死去しました。
12代之敏は幕末期の藩主。
11代直哉の長男として生まれ、
その死去に伴い家督を相続しました。
大番頭、奏者番を経て若年寄に昇進し、
万延元年に外国掛及び会計掛を兼任。
文久2年の将軍徳川家茂の上洛では、
上洛用掛を命じられますが、
病の為にこれを免じられており、
同年に死去しています。
「大應院殿従五位下前江州刺史
俊巌宗澤大居士(右2)」、
「堀備中守之美 従五位奥田之墓(右3)」。
11代藩主堀直哉の墓、
13代藩主堀之美の墓。
11代直哉は唐津藩3代水野忠光の五男。
10代直温の養子となって家督を相続。
大坂加番、日光祭礼奉行、大番頭を務め、
18年の治世の後に死去しました。
13代之美が最後の藩主で、
12代之敏の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順しますが、
領国が北越戦争の激戦地となっており、
多大な被害を被りました。
廃藩後の明治10年に奥田姓に改称し、
明治15年に死去。
14代は宗家からの養子奥田直紹が継ぎ、
明治17年に子爵を授爵されています。
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