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出雲大社は大国主神を祀る神社で、
江戸時代まで杵築大社と呼ばれていました。
大国主神が国譲りの条件として、
太く深い柱で高く立派な宮の造営を願い、
これに従って創建されたとされます。
鎌倉時代頃からは神仏習合となり、
社殿で読経も行われたようですが、
江戸時代に出雲国造家の主張により、
いち早く神仏分離が行われました。
「勢溜の鳥居(二の鳥居)」。
二ノ鳥居は勢溜の鳥居と呼ばれます。
かつては大きな芝居小屋があったようで、
多くの人々が集まる場所だった為、
この近辺は勢溜と呼ばれており、
そこにある為にそう呼ばれたとのこと。
この手前には門前町である神門通りがあり、
その入口に一の鳥居があるのですが、
聖域入口である勢溜の鳥居から参拝します。
「下り参道」。
基本的に参道は上り参道が多く、
下っていく参道は多くありません。
これは国を譲った大国主命は、
幽世を支配する神となった為、
大国主命に参拝するには、
幽世へ下るかたちになるのだとか。
これには諸説ありますので、
一概には断定はできません。
「千家尊福卿」像。
80代出雲国造千家尊福の銅像。
下り参道右側の林の中にあります。
出雲国造は出雲大社の祭祀者で、
千家家と北島家が取り仕切っていました。
尊福は明治4年に出雲国造となり、
神道大社派(後に神道大社教に改称)を創設。
後の出雲大社教の礎を築いています。
元老院議官を経て貴族院議員に選出され、
4期に渡り貴族院議員を務めた他、
埼玉県や静岡県知事、東京府知事を歴任。
第1次西園寺内閣の司法大臣も務めました。
「松の参道の鳥居(三の鳥居)」。
下り参道を越えると松の参道で、
文字通り巨大な松が立ち並んでいます。
現在は松の保存の為に脇道が造られ、
中央の参道は通りません。
松の参道を越えると手水舎がある広場。
両脇には大国主神の像があります。
「ムスビの御神像」。
昭和61年に建立されたもので、
古事記の話を基に制作されたもの。
大国主神が両手を挙げ、
海の神から幸魂奇魂を受け取る場面です。
この幸魂奇魂を受け取ったことで、
様々な縁を結ぶ神性を得たとされ、
大国主神は縁結びの神様となったとのこと。
「御慈愛の御神像」。
隠岐の島に亘る為にサメを騙し、
これに怒ったサメに皮を剥がされ、
更には大国主神の兄弟達には、
海水に浸けると治ると嘘をつかれ、
苦しむ白ウサギを見つけた大国主神。
真水で体を洗って海水を落とした後、
蒲の花の上に寝転ぶよう指示し、
ウサギが言われたとおりにすると、
体に毛が生えて元のウサギに戻りました。
これらは大国主神がどのような神様か、
分かり易く説明できる演出となっています。
銅の鳥居を越えていよいよ新垣内へ。
後で気が付いたのですが、
銅の鳥居の写真を撮り忘れました。
最近多いなぁ・・・。
つづく。
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