永明寺は津和野にある曹洞宗の寺院。
応永27年(1420)に吉見頼弘が創建し、
歴代の津和野領主の菩提寺となっています。
島根県最古の別格大禅院とのこと。
「永明寺」。
山門をくぐると広い前庭となっており、
枡形虎口か馬出しといった感じ。
何らか軍事的な意図もあったのかも?
境内は木々に囲まれた静かな雰囲気。
幕長戦争では幕府軍監長谷川久三郎が、
ここに駐留していましたが、
長州藩の要求により引き渡されています。
山門入って左手に墓所があり、
そこに森鴎外の墓があります。
「森林太郎墓」。
明治期と代表する知識人森鴎外の墓。
医学や文学の評論や、
小説の執筆、戯曲等の翻訳、
ヨーロッパ文学の紹介等を行い、
森家は代々藩の典医を務めた家で、
鴎外はその長男として生まれました。
10歳で父と共に上京し、
東京大学予科に最年少で入学。
卒業後は陸軍の軍医となっており、
明治17年より衛生学の調査の為、
ドイツへ留学しています。
帰国後は軍医の傍らで小説を執筆し、
欧州文学の翻訳や紹介を行いました。
軍医としても陸軍軍医総監、
陸軍省医務局長に就任しており、
退職後は帝室博物館総長兼図書頭となり、
死去するまで仕事を続けています。
この墓は分骨墓のようで、
本墓は三鷹の禅林寺とのこと。
中雀門をくぐって本堂へ。
「本堂」。
茅葺き屋根の本堂は安永8年(1779)の再建。
永明寺は金沢にある大乗寺と共に、
曹洞宗の二大僧堂と呼ばれたようで、
末寺70余ヶ寺、雲水200余名を擁し、
その隆盛から石州本山とも呼ばれたという。
本堂側面より坂崎直盛の墓所へ。
「空 一峰玄秀大居士 〇」。
津和野藩主坂崎直盛の墓。
直盛は宇喜多秀家の従兄で、
洗礼を受けたキリシタン大名でした。
主家の秀家に仕えてはいましたが、
仲が良くなかったようで、
次第に対立するようになったという。
関ヶ原の戦いで秀家が西軍となった為、
東軍となって徳川家康に味方しています。
その功績で石見国に3万石を与えられ、
津和野城を改修して津和野藩を立藩。
宇喜多姓を憚って坂崎姓に改姓しました。
その後の大坂夏の陣において、
豊臣秀頼の正室千姫を大坂城から救出し、
その功で加増されていましたが、
千姫が本多忠刻に輿入れする事に納得せず、
輿入れ時に強奪する事を計画。
これが露見した為に屋敷を包囲され、
自害又は家臣に殺されたという。
津和野城下の掘割を泳ぐ鯉は、
直盛が推奨して繁殖させたもので、
津和野の基礎を築いたとされています。
直盛の墓より山手へ登り、
高崎亀井家と多胡家の墓所へ。
両家共に多胡真清(主水)に連なる家で、
真清は津和野騒動の混乱を収め、
藩政の基礎を確立させた筆頭家老。
「高崎亀井家墓所」。
高崎亀井家は真清の次男多胡真武の系譜で、
後に亀井姓に改めており、
城下の高崎に屋敷を置いた事から、
高崎亀井家と呼ばれるようになりました。
更に上段には多胡家の墓所があります。
「多胡家墓所」。
この多胡家は真清の四男多胡真蔭の系譜で、
真蔭は筆頭家老として藩政確立に尽力。
製紙業の発展に尽力しており、
これが後に津和野の特産品となっています。
また農民の借銀借米を帳消としたり、
耕地の開発等も行いました。
多胡家は以後の代も藩で重きを成し、
幕末まで筆頭家老を務めています。
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