小学校に石碑がある事は珍しい事ではない。
陣屋や城の跡地が少学校となった例もあり、
陣屋跡碑や城跡碑があったりする。
また地元の偉人の顕彰碑も建っているので、
何度も学校を訪問したりしています。
しかしながらお墓が学校にあるというのは、
非常に珍しいのではないでしょうか?
各地の学校の七不思議等では、
学校ができる前は墓地であったとか、
子供達の間で囁かれていたりしますが、
これはあながち本当だったりします。
上記のように陣屋や城の跡地が、
学校になったりすることも多いのですが、
寺院が境内を縮小して墓地を整理し、
その跡地が学校になる事もあったりする。
要は陣屋や寺地は一等地も多く、
その跡地に学校が建設される事もあり、
それほど不自然ではありません。
但し跡地ならばわかりますが、
実際に校庭に墓が残されているのは、
殆ど無いのではないでしょうか?
今回訪問した毛利謙八の墓所は、
現役の小学校の校庭の中。
これには理由があるようです。
「毛利謙八大江正徳墓」。
宇部市立厚南小学校構内の北側にあります。
毛利謙八は右田毛利家の出身で、
※詳しい出自は不明。
厚狭郡大森周辺200石を領していました。
武技に長じて早くから勤皇を唱え、
用務で京都や薩摩に派遣させられる事もあり、
薩摩藩等の志士らとも交友し、
日夜国事に奔走していたという。
また集義隊を組織してその隊長となり、
正義派の一員として活躍しますが、
それ故に俗論党に恨まれたようで、
元治2年2月1日に暗殺され、
その首級が晒されています。
※暗殺時は荻野隊に所属していた模様。
その後大森領民らは首級を持ち帰り、
毛利山と呼ばれたこの地に埋葬。
維新後に小学校が建設される際に、
干拓地がその立地の候補となりますが、
小学校に干拓地は危険であろうと、
当時の毛利山の所有者が土地と提供し、
現在の厚南小と阿南中学校となりました。
その際に元領主であった謙八の墓が残され、
そのまま校庭に置かれたようです。
異説としては元治2年の内訌ではなく、
明治2年の脱退騒動の際に、
騒動に参加しようとする元隊士を止めた際、
この元隊士によって斬り殺されたとも。
とにかく暗殺されてここに埋葬されたようで、
その後に学校の敷地となりますが、
元領主の墓という事で残されたようです。
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