明治前期の大記者福地源一郎(桜痴)の墓。
「福地源一郎之墓」。
長崎の儒医福地苟庵の子に生まれ、
儒学者長川東洲に漢学、
蘭通詞名村八右衛門に蘭語、
英通詞森山栄之助に英語を学び、
通弁御用雇として外国奉行に出仕。
文久元年には文久遣欧使節に参加し、
同年に第一次東禅寺事件に遭遇しました。
慶応元年には幕命で再び欧州へ渡り、
新聞や演劇、文学等の文化に触れます。
慶応4年閏4月に江湖新聞を発刊。
そこで新政府批判を展開した為、
発禁処分となってしまいました。
明治3年には大蔵省に出仕しており、
伊藤博文に従って渡米。
翌年には岩倉使節団に随行しています。
明治7年に辞職して東京日日新聞に入社。
主筆となって社説欄を設けており、
西南戦争では自ら戦地へ赴き、
戦報採録の記事を執筆しています。
しかし御用新聞との批判を受け始め、
明治21年に退職。
以後は小説、戯曲を執筆し、
歌舞伎座の創立にも尽力しており、
脚本も多数執筆しました。
明治37年に衆議院議員に当選しますが、
在任中の明治39年に病死しています。
墓所は谷中霊園甲1号12側。
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