下関中央霊園に白石正一郎の墓があることは、
前々から知ってはいたのですが、
その詳しい場所の情報が無かった為に、
今迄どこにあるかわかりませんでした。
当ブログもご子孫よりコメントも頂いており、
下関市阿弥陀寺町 真木菊四郎/白石正一郎墓
是非とも手を合わせたいと思いつつ、
今日に至っていた次第です。
実は僕の母方の墓が中央霊園にあり、
盆や彼岸にはお墓参りに来ていたので、
その都度少しずつ探してはいたのですが、
両親や家族と来てるのでそれ程時間は無く、
見つけられませんでした。
東京の都市霊園程ではありませんが、
まあまあ広い霊園で高低差もあり、
しらみつぶしも骨が折れますが、
今回時間があったのでしっかり探すと、
意外にも簡単に発見(普B-3区)。
「白石正一郎資風奥都城(右)」、
「白石家之墓(左)」。
白石正一郎の墓と白石家の累代墓。
白石正一郎については、
当ブログで何度も紹介していますが、
竹崎の荷受問屋小倉屋の8代目で、
下関にやって来る尊攘志士らを支援。
白石家に厄介になった志士らは、
約400人にものぼるという。
特に高杉晋作に惚れ込んでいたようで、
奇兵隊の結成を金銭面で支援しており、
自らも会計方を務めました。
晩年は下関で隠棲しており、
赤間神宮2代宮司を務めたようで、
明治13年に死去しています。
白石は新政府に見捨てられたとか、
使い捨てられたといわれます。
別のページで書いてはいますが、
僕はそうは考えません。
初期の奇兵隊財政の殆どを負担し、
主要な取引先の小倉は壊滅してしまい、
小倉屋は屋台骨を傾けて破産しました。
家財の売却まで行った白石は、
商売への情熱が失せてしまったのでしょう。
見捨てられたといわれますが、
新政府への出仕を白石が望むなら、
他藩のツテも七卿のツテもあったので、
いくらでも出仕は出来る筈。
中央からのお呼びが掛かっても、
既に齢を重ね過ぎていた白石は、
年甲斐も無く新政府に出仕するより、
故郷で余生を過ごす事を選んだのです。
立身出世の為でも商売の為でも無く、
只国の為に尽くした勤皇商人であり、
非常にカッコいい人物なわけで、
新政府に見捨てられたとか、
勝手に悲劇の人物に仕立て上げるのは、
ちょっと違うんじゃないかと思います。
■関連記事■
・下関市吉田 東行庵/白石正一郎の墓
東行庵にある白石正一郎の墓。
・下関市竹崎町 白石正一郎旧宅跡
小倉屋白石家の邸宅跡。
・下関市長府 白石正一郎邸浜門
移築現存している白石邸の浜門。