金子重輔の墓のある旧保福寺墓地には、
長州藩儒臣山縣家の墓所もあります。
「山縣家墓所」。
山縣家は右田毛利家の儒臣だった家で、
その当主であった山県良斎が、
右田毛利家継嗣毛利就勝の宗家相続に伴い、
※就勝は2代藩主毛利綱広の次男で、
右田毛利家の養子となっていましたが、
兄の3代毛利吉就が早逝してしまった為、
実家に戻されて家督を相続しました。
宗家に仕えて儒臣となっています。
「周南山縣先生之墓」。
藩校明倫館2代学頭山縣周南の墓。
良斎の次男として生まれ、
父と共に萩に移住して藩に仕え、
江戸に遊学して荻生徂徠に学びました。
朝鮮通信使の応接で詩才を評価され、
その才を世に知られたという。
藩校明倫館の創設に関与しており、
初代学頭小倉尚齊の死後は学頭に就任。
多くの人材を輩出させています。
「太華山縣先生之墓」。
幕末期の当主山縣太華の墓。
長州藩士吉田半右衛門の長男に生まれ、
筑前の亀井南冥に古文辞学を学び、
江戸の林家で朱子学を学んで頭角を表し、
藩命で儒家である山縣家を相続。
藩主側儒、明倫館学頭を務めました。
嘉永5年に病気を理由に隠居しますが、
安政3年に吉田松陰と論戦を繰り広げ、
この件で知名度が高いようです。
慶応2年、死去。
もうひとつ山縣寸身軒の墓がありますが、
どういう人物かよくわかりません。
先祖の霊が合葬されていますので、
山縣家の家祖かもしれません。
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