熊本県熊本市 川尻宿跡

川尻薩摩街道の宿場町であり、
また熊本藩の重要な川港でした。


熊本市南区川尻周辺。
緑の線が薩摩街道で、
青くぼかした辺りが川尻宿跡。


川尻宿跡」。
川尻宿の街道筋は県道50号線沿い。
元は国道3号線だった道ですが、
現在は400m東側に迂回しています。
とはいえ未だ主要道路であるようで、
交通量は多い模様。
古い家屋はそれ程見られませんが、
伝統工芸を製作するお店等も多く、
その面影を残しています。


高札場と二里木跡」。
肥後銀行の少し北側のT字路辺りが、
勢屯と呼ばれた広場だった場所。
高札が掲げられた高札場でもあり、
熊本から二里の場所であった為に、
榎の木が植えられて目印とされ、
最も人通りが多い場所だったという。

街道は県道50号線を南北に進みますが、
それ程みるべきものも無いようですので、
ここからT字路を西に進みます。

小路町」。
文字通り小路といった通りは、
車線がくねくねと蛇行しています。


川尻小学校」。
川尻鎮撫隊については後記しますが、
その本営跡の碑が構内にあります。
残念ながら門は閉ざされており、
碑の写真は撮れませんでした。
※実際の本営跡は川尻1丁目6で、
 当時は岡町と呼ばれていた場所。



木村政彦を育てた道場跡」。
柔道家/プロレスラー木村政彦が、
少年時代に修行した道場の跡。
小学校の校門より20m程南にあります。
大正~昭和の人物ではありますが、
史上最強の柔道家と称されており、
有名な人物です。


本陣跡(小路町の待賓館跡)」。
本陣については詳細不明ですが、
薩摩藩人吉藩の参勤にされました。
御茶屋が別に設置されていますので、
民営だったと思われますが、
待賓館跡と称されているの藩営かも?
現在は瑞鷹酒造の蔵になっています。

通りを突きあたると川尻蔵前通り
歴史的建造物が多く残っています。

瑞鷹酒造」。
慶応3年創業の酒蔵。
江戸期の熊本では清酒は造られず、
赤酒が唯一の地酒でした。
※地元で製造された赤酒以外は、
 藩が旅酒と呼んで禁止していた。

初代吉村太八は清酒造りをいち早く開始し、
維新後に他所の酒も流入した事から、
人々の需要が赤酒から清酒へと変化。
敷地内に熊本県酒造研究所も設置され、
熊本の清酒造りの発展に貢献しています。
市販されていない焼酎試飲はかり売り
赤酒の資料等が展示されているとのこと。


明治十年戦役南洲翁本営跡」。
廻船問屋塩飽屋の建物だった町家で、
西南戦争の際に西郷軍本営となり、
西郷以下幹部が滞在しています。
当時川尻には西郷軍1万5000が駐留し、
兵で埋め尽くされていたという。
現在も当時の姿をとどめており、
貴重な遺構となっています。


町奉行所跡」。
川尻の町の行政を担った奉行所跡
裏手には御茶屋が設置されていました。
その最後の川尻奉行となったのは、
後に川尻鎮撫隊を組織した上田休
上田は維新後に西区城山半田に隠棲し、
私塾を開いていましたが、
西南戦争で川尻の治安が悪化し、
川尻の町民は上田に協力を依頼した為、
上田は政府軍、西郷軍双方に属さず、
川尻の治安を維持する為の部隊を組織。
これによって治安は安定されますが、
西郷軍は後に本営を移して敗走し、
代わって政府軍が川尻に入ると、
上田は捕縛されて尋問を受けます。
一時は治安維持の功績を認められますが、
転じて西郷軍を助けたという罪状で、
処刑されてしまいました。


川尻御蔵前の船着場」。
熊本藩の年貢米荷揚場跡
状態よく石垣が残されています。
船着場は延長150mと非常に長く、
潮の満ち引きに対応する為に、
13段の石段が作られました。
更に殿様専用の船着場もあり、
そこだけ立派で頑丈だったとのこと。


公衆トイレ跡」。
船着場を利用する人達用のもので、
現存するのは非常に珍しい例。
沢山の人々が集まった場所ですので、
それぞれが適当に立ションされると、
臭い衛生的にも良くないので、
このようなものは必須でしょう。


熊本藩川尻米蔵跡」。
九棟あったという米蔵のうち、
外城蔵と呼ばれた二棟が現存。
毎年約20万俵の年貢米が、
川尻に集められたとされており、
熊本藩にとって重要な場所でした。

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