宗勝寺は福岡市東区下原の曹洞宗寺院。
「宗勝寺」。
小早川隆景の重臣乃美宗勝が、
隆景に従い立花城代を務めていた際、
その妻を病で亡くしてしまい、
彼女を弔う為に真福寺を建立。
後に宗勝は文禄の役の際に病を得て、
養生の為に帰国しましたが、
そのまま死去してしまいます。
宗勝は妻の眠る真福寺に葬られ、
寺名を宗勝寺に改称。
隆景は寺領20石を寄進していますが、
これは黒田家時代も続いたようです。
「本堂」。
本堂は一度焼失しているようで、
現在のは約200年前に再建されたもの。
宗勝の墓所は弘法太師を祀る太師堂より、
少し山手に登った場所。
「乃美宗勝墓所」。
竹林の中にある乃美宗勝の墓所。
5人の重臣の墓や大姉銘の2基の墓等が、
宗勝夫婦の墓の他にもあります。
宗勝公夫婦の墓。
「宗勝寺殿天與勝運大居士(左)」。
宗勝の墓石より奥方の方が多いですが、
傷みは酷く碑銘もわかりません。
乃美宗勝は浦宗勝とも呼ばれるように、
沼田小早川家庶流浦家の当主で、
隆景配下の水軍司令官として活躍し、
毛利家の勢力拡大に貢献しました。
隆景が独立した大名となってからも、
その右腕として多くの戦いに参戦。
水軍を率いる能力に長けましたが、
文禄の役の陣中で病に倒れて帰国し、
筑前国糟屋郡で死去しています。
跡を継いだ次男の乃美景継は、
主君隆景の死後は毛利家帰属を希望。
小早川秀秋に仕える事を良しとせず、
毛利輝元に仕える事となりました。
父と同じく水軍を率いる事に長け、
関ヶ原の戦いでも海戦で大勝し、
僅か2日間で六浦を制圧。
首級130を挙げる活躍をしています。
景継の死後は養子の浦元種が相続。
乃美姓から浦姓に改めており、
以後は寄組浦家として続き、
幕末には浦靱負元襄を輩出しました。
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