京都府京都市 知恩院総墓地/酒井忠次墓所

酒井忠次は[徳川家康第一の功臣]と称され、
[徳川四天王][徳川十六神将]の筆頭。
庄内藩酒井左衛門尉家の祖でもあります。


知恩院上段中央の門を通ると墓地。
ここに忠次の墓があるとのこと。
忠次の菩提寺は知恩院塔頭先求院で、
墓所はこの知恩院総墓地にあります。

山肌を登った先にあるという情報を元に、
先求院殿の法名を探して歩くと、
意外にも簡単に見つかりました。

先求院天譽高月縁心居士 覺位(右)」。
酒井佐衛門尉家5代当主酒井忠次の墓。
※隣の五輪塔は風化で墓碑銘読めず。
 奥方(正室碓井姫?)の墓と思われます。

忠次は三河井田城城主酒井忠善の次男で、
10歳で家督を相続しています。
松平広忠に仕えてその妹碓井姫を娶り、
嫡男竹千代(家康)が今川家の人質となると、
これに従って駿府に同行。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後、
家康と共に岡崎に帰還しており、
以後は家康の家臣として各戦役に参戦し、
宿老石川数正の出奔後は、
家中で第一の重臣とされており、
従四位下左衛門督に任じられました。
天正16年(1588)に隠居しており、
嫡男酒井家次の家督を譲りましたが、
晩年は殆ど目が見えなかったという。
慶長元年(1596)、死去。

同墓地には家康次女督姫の墓もあり、
忠次の墓の南側にあります。

良正院殿高譽智光慶安大禪定尼」。
徳川家康次女督姫の墓。
督姫は家康の次女で母は側室西郡局
本能寺の変後に起こった天正壬午の乱で、
徳川家と北条家は対立していましたが、
甲斐信濃を徳川家の領地とし、
上野を北条家の領地とする事で、
両家の和睦が成立していますが、
その条件のひとつとして督姫が北条家に嫁ぎ、
北条氏政の次男北条氏直の正室となります。
後に北条家は小田原征伐で滅亡しますが、
氏直は家康の助命嘆願で許され、
高野山追放の後に許されました。
しかしすぐに氏直は死去してしまい、
督姫は家康の許へ戻り池田輝政と再婚。
輝政との間には5男2女を儲けますが、
既に輝政には嫡男池田利隆が居た為、
息子らは別に領地が与えられ、
鳥取藩池田家福本池田家の初代となります。
輝政の死後も姫路城で暮らしましたが、
家康に会う為に京都へ赴いた際、
疱瘡にかかりそのまま死去。
この知恩院の墓地に埋葬されました。
輝政との最初の子池田忠継に、
池田宗家の家督を相続させる為、
毒饅頭を利隆に食べさせようとした際、
これを知った忠継が自ら毒饅頭を食べ、
母の暴走を防いで死亡したとされ、
これを悲しんだ督姫も毒饅頭を食べて、
死亡したという話もありますが、
文献や忠継の墓所改葬時の調査で、
この説は否定されています。

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