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三井寺は大津市にある天台寺門宗総本山。
正式な名称は長等山園城寺ではありますが、
一般的には三井寺として知られています。
38代天智天皇、40代天武天皇、
41代持統天皇の3人の天皇が、
境内の霊泉を御産湯に用いられたとされ、
[御井の寺]と呼ばれていたのが転じ、
[三井寺]と呼ばれるようになったという。
その創建は7世紀とされており、
大友氏の氏寺として草創されていますが、
後に衰退して9世紀に智証大師円珍が再興。
皇室、貴族、武家等幅広く信仰されますが、
比叡山延暦寺との対立が激化した為、
度々比叡山宗徒により焼き打ちされています。
織田信長の比叡山焼き討ちの際は、
三井寺が信長の本陣として利用され、
山崎の戦いでは明智光秀の首実験が、
この寺で行われたとのこと。
後に豊臣秀吉に勘気触れて闕所となりますが、
秀吉の最晩年に再興が許可。
正室高台院も金堂を寄進しており、
寺領4300石も与えられました。
その後は伽羅の再建等も着実に行われ、
江戸期には幕府の庇護を受け隆盛しています。
「仁王門(大門)」。
元々は常楽寺(湖南市)にあった楼門で、
宝徳4年(1452)に建てられたもの。
これが秀吉により伏見城に移築され、
慶長6年(1601)に徳川家康が再移築したもの。
三井寺の中院及び全体の表門であり、
両脇に仁王像が置かれてしています。
国指定重要文化財。
仁王門以降は拝観料600円が必要。
「食堂(釈迦堂)」。
天正期(1573-1593)造の京都御所の清涼殿が、
元和7年(1621)に下賜されて移築したもの。
本尊は清涼寺式釈迦如来像。
こちらも国指定重要文化財です。
「金堂」。
本堂にあたる金堂。
豊臣秀吉によって闕所とされた際、
境内の堂塔は破却されていますが、
金堂は比叡山復興の為に延暦寺西塔に移築。
現在も釈迦堂(転法輪堂)として現存します。
現在の金堂は高台院の寄進によるもので、
慶長4年(1599)に再建されたもの。
国宝建築物。
「鐘楼」。
金堂の近くにある鐘楼は、
慶長7年(1602)の再建。
鐘楼内に吊られている梵鐘は、
近江八景[三井の晩鐘]で知られます。
国指定重要文化財。
「歌川広重 近江八景 三井晩鐘」。
三井寺の梵鐘が晩の入りを告げ、
遠方より響く情景を描いています。
「三井の晩鐘」
音色の良いことで知られる名鐘。
日本の音風景鐘100選、
日本三大名鐘、日本三名鐘に選ばれた鐘。
百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘としては、
在銘最古だとされています。
「閼伽井屋」。
金堂に接するように建つ閼伽井屋。
内部の岩組から霊泉が湧き出しています。
天智天皇、天武天皇、持統天皇の三帝が、
この水を産湯に用いたとさており、
[三井寺]の名称の由来となりました。
現在のものは慶長5年(1600)の再建で、
金堂と同じく高台院の寄進。
国指定重要文化財。
金堂から霊鐘堂へ。
「弁慶の引摺鐘」。
藤原秀郷が大百足を退治した際、
竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進。
後の比叡山との争いで弁慶がこれを奪い、
延暦寺まで引き摺ったとされますが、
[去のう、去のう(帰ろう、帰ろう)と、
鐘が響いたので弁慶は怒り、
谷底へ投げ捨てたとされます。
現在もある傷や割その時のもので、
文永4年(1267)に戻されたとのこと。
霊鐘堂より更に登り、
孔雀の飼われている檻を越えて一切経蔵へ。
「一切経蔵」。
室町初期に建立された禅宗様経堂。
山口にある国清寺(現洞春寺)の経蔵を、
慶長7年(1602)に毛利輝元が移築したもの。
もちろん国指定重要文化財。
つづく。
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■関連記事■
・和歌山県紀の川市 粉河寺
天台宗より派生した粉河観音衆の総本山。
・東京都港区 寛永寺
上野にある天台宗関東総本山。
・岩手県平泉市 中尊寺
金色堂のある天台宗東北大本山。