伏見は京都と大坂を結ぶ交通の要所で、
多くの藩が藩邸を設けていました。
長州藩も伏見藩邸を置いていましたが、
それは豊臣政権時代からのもので、
当初は伏見城下西端にあったようです。
「京都市建設局伏見土木事務所」。
市の土木事務所となっている藩邸跡。
元禄12年(1699)の中書島の開拓後、
ここに移転したようですが、
詳しい移転時期は不明のようです。
「伏見長州藩邸跡」碑。
元治元年7月19日未明。
長州藩家老福原越後は藩兵約500名と共に、
伏見長州藩邸を出発して京を目指します。
その途中で諸藩連合軍と衝突し、
これを持って禁門の変が勃発。
劣勢となった長州藩は一時後退し、
藩邸まで戻って態勢を整え直すと、
再び進軍を開始。
しかし諸藩連合軍は更に増強しており、
押し返されて砲撃を受けてしまい、
藩邸は灰塵に帰してしまいます。
この戦いで長州藩は賊軍となり、
藩邸の敷地も幕府に没収されてしまい
以後は再建されることはありませんでした。
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