京都府京都市 要法寺

要法寺日蓮本宗の大本山寺院。
延慶元年(1308)に太夫阿闍梨日尊が、
後醍醐天皇に天奏を行った功績により、
六角油小路に法華堂を創建し、
後に上行院と改称されます。
また日尊の弟子日大が創建した法華堂が、
後に改称して住本寺となっており、
両寺共に栄えていたようですが、
当初より両寺は犬猿の仲でした。
その後の天文5年(1536)の法華一揆により、
法華宗徒は京から退去してへ避難。
天文17年(1548)に入洛を許されると、
次々と法華宗寺院の再興が行われ、
上行院は住本寺と統合する事となり、
五条坊門堀川に要法寺が創建されます。
天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により、
要法寺は京極二条東に移転。
宝永5年(1708)の宝永大火で消失し、
後に現在地の東山三条に移転しています。


山門(表門)」。
 享保9年(1724)移築の山門
伏見城聚楽門だったとされますが、
享保9年には既に廃城となっているので、
何処かからか再築されたものでしょう。


本堂」。
安永3年(1774)再建の本堂
宝暦9年(1759)に火災で焼失した後、
再建されたものが現在の本堂です。
本堂前の清涼池には毎年カルガモが飛来し、
雛を育ててから鴨川へ引っ越すとのこと。


開山堂(新堂)」。
文政13年(1830)再建の開山堂
元々は新堂と呼ばれていましたが、
開山の日尊上人御影像を安置し、
大正4年に開山堂に改称されたとのこと。

要法寺は寛政7年(1795)に本圀寺の末寺に、
[新義異流(邪教)]として告発されてしまい、
幕府の処罰の対象となりかけます。
※要法寺の末寺には仏像を拝す住本寺系と、
 それらに拘らない上行院系が混在し、
 上行院系の末寺が仏像を撤廃した事で、
 邪教であると訴えられたという。

この訴えに対して要法寺側は、
新義ではなく富士門派の立義であると主張。
しかし富士門流の大石寺(現日蓮正宗)には、
富士門流と要法寺は無関係と否定され、
非常に苦しい立場となりますが、
結局は法華宗15本山と和解が成立し、
条件として仏像安置が義務付けられました。
明治9年には要法寺含む富士門流八本山が、
日蓮宗興門派を結成し後に本門宗と改称。
昭和16年には日蓮宗となっており、
昭和25年に独立して日蓮本宗となって、
現在に至っています。

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