①/②/③/④/⑤/⑥/⑦/⑧/⑨
つづき。
一、3月29日、晴。
寅の半ぱに①吉田を出発し、
二川に至りて始めて朝となる。
白湯に至りて始めて富岳を望む。
道右に大東洋を望み②新居で食事。
関所を過ぎて舟にて1里。前坂に達す。
列松の間を穿つこと3里。③浜松に宿す。
井上河内守の居る所なり。
※浜松藩2代(2度目)井上河内守正直。
遠州の俗は五月を以って凧を操る。
蓋し他国でいう重陽の節。
旗幟を庭に建てるの類という。
今は3-4月の交なる時期だが既に多く見る。
また銃を放つ音を聞く事数回、
思うに訓練しているのだろう。
一、4月朔日、晴。
卯後、濱松を出発。舟で天竜川を渡り、
近道に行くこと1里にして見付に至る。
街道だったら2里余りという。
④袋井に至り食事。⑤掛川に宿す。
太田摂津守の居る所なり。
※掛川藩6代太田摂津守資功。
袋井、懸川の間に木柱が建っており、
[松平美作守知行所]と書かれていた。
申時、久留米候が掛川を過ぎて西上す。
※久留米藩11代有馬頼咸。
一、4月2日、晴。
寅前に懸川を出発。
日坂、小夜の中山を越え、
菊川を過ぎて金谷臺を蹹ゆ。
この間険しい山道。人馬共に苦しむ。
肩輿にて大猪川を過ぎる。
これは遠駿の境界である。
大猪川の情状は見聞が及ぶ限りでは、
菅晋師の詩は的確というべし。
※管晋師(茶山)は備後の儒者で詩人。
[草芽危言]に謂う所の石梁とは、
未だに如何なるものかを知らず。
※中井竹山著。老中松平定信に献上。
只流れが変化して橋を架けるのは、
非常に便利な事であるが、
便な事が明らかなのに何も成さす、
徒らに諸侯の金を費やして、
金谷、島田の人口を無駄にしている。
悲しいかな。⑥藤枝驛に宿泊。
驛前に瀬戸川あり衣を揚げて渡るべし。
大猪川以東は田中城主本田豊前守領。
※田中藩6代本多豊前守正寛。
一、4月3日、晴。
寅時、藤枝驛を発す。
暁暗で田中城は見れなかった。残念。
岡部驛を過ぎ宇都屋嶺を越える。
険しい山が続き四山が連属し、
日坂、中山、金谷臺と形勢が似ている。
鞠子驛を過ぎ安倍川を渡る。水深腰に及ぶ。
府中を経て⑦江尻に宿す。
3/29~4/3の行程。
つづく。
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