吉田松陰の三月二十七日夜の記③

//③///
つづき。

夷人吾が二人の手をとり梯子段を上る。
此の時謂へらく、舟に入り夷人と語る上は、
我がは如何様にもなるべしと。
我が舟をば顧みず夷船中に入る。
※夷人は我ら2人の手を取り梯子段を上る。
 この時は夷船で夷人と語るうえは、
 我が舟はどうなっても良いと思った。
 これを顧みず夷船に乗った。

船中に夜番の夷人五六名あり。
皆或は立ち或は歩を習はず、
一も尻居に坐する者なし。
夷人謂へらく、吾れ等見物に来れりと、
故に羅針等を指し示す。
※船内は夜勤の夷人が5~6名いた。
 皆立っていたり歩いていたりして、
 座っている者はいなかった。
 夷人らは我らは見物に来たと思い、
 羅針盤を指し示した。

予筆を指し示す。
予筆を借せと云う手眞似すれども、
一向通ぜず頗る困る。
其の内日本語をしるものウリヤムス出てくる。
因つて筆をかり、
米利堅にゆかんと欲するの意を、
漢語にて認めかく。
※予は筆を指し示して、
 筆を貸せと身振りしてみるが、
 一向に通じる様子は無かった。
 やがて通訳のウィリアムズが出て来た。
 そこで筆を借りると、
 アメリカに行きたい旨を感じで書く

※※米通訳サミュエル・ウイリアムズ
ウリヤムス云はく、[何國の字ぞ]。
予曰く[日本字なり]。
ウリヤムス笑ひて曰く、
[もろこしの字でこそ]。
叉云はく[名をかけ、名をかけ]と。
因って此の日の朝上陸の夷人に、
渡したる書中に記し置きつる偽名、
余は瓜中萬二、澁生は市木公太と記しぬ。
※ウィリアムズ曰く[何処の国の字か?]、
 予曰く[日本の字である]、
 ウィリアムズは笑って曰く、
 [中国語で書け]。
 また曰く[名を書け、名を書け]と。
 そこでこの日の朝に上陸中の夷人に、
 渡した書簡に書いた偽名を書く。
 予は瓜中萬二、渋生は市木公太と記す。

ウリヤムス携へて内に入り、
朝の書翰を持出で、
此の事なるべしと云う。吾れ等うなづく。
ウリヤムス云はく[此の事大将と余と知るのみ、
他人には知らせず。大将も余も心誠に喜ぶ、
但し横濱にて米利堅大将と林大學頭と、
米利堅の天下と、日本の天下との事を約束す。
故に渡しに君の請を諾し難し、少し待つべし、
遠からずして米利堅人は日本に来り、
日本人は米利堅に来り、両国往来すること、
同国の如くなるの道を開くべし、
其の時來るべし。
且つ吾れ等此に留まること尚三月すべし、
只今還るに非ず
]と。
※ウィリアムズは書を持って船内に入り、
 朝の書簡を持って[この事か?]と言う。
 我らは頷いた。
 ウィリアムズ曰く[この事は大将と、
 私だけが知っているだけ。

 我々は非常に喜んでいた。
 但し横濱にてアメリカの大将と林大学頭が、
 両国の天下について約束したばかり。
 故に君等の願いを叶える事は出来ない。
 少し待てば両国の人々が行き来して、
 同じ国を往来するようになる筈。
 その時は必ず来るだろう。
 更に我らはここにあと3ヶ月滞在する為、
 今直ぐには帰ることはない]と。

※※林大学頭は林大学頭家11代林復斎の事。
  ペリー艦隊応接掛に任命され、
  米国側との交渉を行った朱子学者

余因って問ふ。
[三月とは今月よりか?来月よりか?]。
ウリヤムス指を屈して對へて曰く、
[来月よりなり]。吾れ等云はく、
[吾れ夜間貴舶に来ることは
国法の禁ずる所なり。
今還らば国人必ず吾れを誅せん、
勢還るべからず
」。
※予はこれを聞いて問うた。
 [3ヶ月とは今月からか?来月からか?]。
 ウィリアムズは指で数えるような仕草の後で、
 [来月からだ]と言った。
 我ら曰く[我らが夜に貴船に来ることは、
 国が禁止する事項である。
 今帰ったら国の者は必ず吾らを罰する為、
 帰ることは出来ない]。

ウリヤムス云はく、
[夜に乗じて還らば国人誰れか知るものあらん、
速く還るべし。
此の事を下田の大将黒川嘉兵知るか。
嘉兵許す、米利堅大将連れてゆく、
嘉兵許さぬ、米利堅大将連れてゆかぬ
]。
※ウィリアムズ曰く[夜に乗じて帰れば、
 誰にも見つかる事は無いだろう。
 速く還った方がよい。
 この事を下田の大将黒川嘉兵が知っても、
 嘉兵は許すだろう。
 しかしアメリカ大将が連れて行けば、
 嘉兵は許さないだろう。
 だからアメリカ大将は連れて行けない]。

※※下田奉行組頭黒川嘉兵衛
余云はく、[然らば吾れ等舶中に留まるべし。
大将より黒川嘉兵にかけあひ呉るべし
]。
ウリヤムス云はく、[左様になり難し]と。
ウリヤムス反覆初めのいふ所を云ひて、
吾が歸を促す。吾れ等計巳に違ひ、
前に乗り棄てたる舟は心にかかり、
遂に帰るに決す。
※余は言った[然らば吾らを船中に留まらせ、
 大将より黒川に掛け合ってくれないか?]。 
 ウィリアムズは[それは出来ない]と言い、
 我らに帰るよう促した。
 計画は失敗して乗って来た舟が気に掛り、
 遂には帰ることと決定した。

 
つづく。
//③///

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