慶応2年6月に起こった大島戦争において、
一時幕府軍は周防大島を占領しますが、
丙寅丸の奇襲や上陸作戦での勝利により、
幕府軍は撤退して周防大島は奪還されます。
長州勢は敗残の松山藩兵を捕らえますが、
そのうち士分14名が斬首に処され、
その首が晒し首とされました。
「残兵斬首跡」。
屋代川沿いの土手に説明板が設置され、
脇にお堂や地蔵が並んでいます。
この辺りで斬首されて晒されたようで、
士分14名の首には制札が建てられ、
「皇国の大道を乱し妄りに正義の国に立入り、
乱暴を致したる其の罪を以って、
誅殺を加うるものなり」と記されたという。
士分以外の小者らには尊皇の大義を説論し、
1人一両を与えて松山に送り返しており、
これを受けて松山藩でも、
連れ帰った捕虜10余名に一両を与え、
大島に送り返したようです。
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