撫川城は三村家親が永禄2年(1559)に、
宇喜多直家への備えとして築城させた城。
天正3年(1575)家親の子三村元親が、
毛利家によって滅ぼされて以降は、
境目七城のひとつとなりましたが、
城を任された井上就正は羽柴秀吉に敗れ、
撫川城は落城しました。
後に戸川達安が関ヶ原の戦いの功績で、
備中国都宇郡及び賀陽郡を与えられ、
撫川城の二ノ丸跡に庭瀬陣屋を設置。
これを藩庁としていましたが、
4代藩主戸川安風が嗣子なく死去した為、
庭瀬藩戸川家は無嫡断絶となります。
戸川家は安風の弟戸川逵冨が継ぎ、
5000石で交代寄合として存続。
撫川城の本丸跡に陣屋を建設し、
江戸時代を通じて存続しました。
「撫川城跡」。
堀に囲まれた野面積の石垣が残っています。
旗本戸田家の撫川陣屋が設置されたとされ、
入口にある門は撫川陣屋の総門で、
明治期に移築されていたものが、
後にこの場所に再移築されたもの。
JR庭瀬駅西側周辺(撫川陣屋跡のある場所)。
陣屋自体は撫川城跡の南側にあったようで、
地図の赤丸辺りがその場所。
現在は住宅地になって遺構は皆無で、
写真の撮影はしていません。
また東側の清山神社辺りが庭瀬陣屋跡で、
両陣屋は殆どお隣同士といった感じでした。
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・岡山県岡山市 庭瀬陣屋跡
撫川城二ノ丸跡に置かれた陣屋跡。